カントの応報刑論と武士道の死ぬ権利 ー なぜ死刑が人間の尊厳を尊重する行為なのか

哲学


イマヌエル・カントが提唱した「死刑は犯罪者の人間としての尊厳を尊重する行為である」との論旨は、現代の人類共通の「生命が一番大切」との理念に反する逆説である。

そのため難解との印象を持たれるであろう。

生命を奪う死刑がなぜ人間の尊厳を尊重する行為なのか?

この応報刑論の根底には「理性ある人間が犯した罪とそれに対する責任」を極限まで重く見る、厳格にして哲学的な人間観が存在する。

興味深いのは、近代哲学の応報刑論と日本古来の武士道における切腹、この両者はその本質において通底していることである。

本稿ではこの二つの概念を対比させ、その根底に共通して流れる「人間の尊厳と責任の取り方」の論理を明らかにする。

本コンテンツは「死刑制度から占う日本の将来」 の補講として執筆したものです。管理人の個人的考察による論稿であり、学術論として公的に認められたものではございません。一つの思索の試みとしてお読みいただければ幸いです。


国家が認める理性ある存在としての犯罪者

カントは著書『人倫の形而上学』において人間とは環境や欲望の奴隷ではなく、自らの自由意志によって道徳法則を選択できる「理性ある存在」とした。

そのため、他者の命を奪う倫理、道義に反する犯罪行為を選択した場合、それは本人の理性的決断の結果として扱わなければならない。

そして、命を奪った者には命をもって償わせる、すなわち、死刑による同害報復こそが、刑罰の均衡を保つ唯一の道であるとカントは説く。

仮に、同情や慈悲、現代で言う情状酌量により犯罪者の罪を減じる、あるいは、犯罪抑止を期待し見せしめに利用したとする。

それは犯罪者を「自らの行為に責任を負えない動物、あるいは壊れた機械」と見なし客体化するものである。

客体化

きゃくたいか
人間を思考、感情、自律性がない物として扱う行為。

「客体化」は人間に対する最大の侮蔑であり、尊厳を踏み躙る行為に他ならない。


犯罪者への敬意の証としての刑の執行

カントは法と理性に基づき、犯した罪と同等の責任を取らせるのは、犯罪者を一人の理性(自由意志)ある人間として認めるものであると論ずる。

その論理は以下である。

「あなたはあなたの理性で他人の命を奪う決断をし実行しました」ー 自由意志 ー

「あなたが決断し実行した殺人と同等の報い、すなわち、『 死刑 』をあなた自身にも引き受けてもらいます」ー 同害報復 ー

「あなたを自分の決断と行動に責任が持てる、ひとりの人間として認め尊重するからこそ『 死刑 』にするのです」ー 非客体化

これらの論理から、「死刑は犯罪者の人間としての尊厳を尊重する行為である」というカントの主張に帰結するのである。



ご注意

非客体化
人間を自律性がない物として扱う「客体化」の対義語として「非客体化」と表現しています。管理人が創作した造語であり、カントが使用した言葉でないことにご留意下さい。



処刑との相違 − 武士の特権としての切腹

日本の武家社会における「切腹」もまた、単なる刑罰の枠組みを超えた特異な論理構造を持つ。

江戸時代は農民や商人などの非武士階級が死罪に相当する罪を犯した場合、打ち首や磔(はりつけ)などの刑に処された。

これは国家権力による一方的な処刑であり、罪人は完全に「客体」として扱われている。

一方、武士に対しては相応の罪や不始末があった場合、打ち首ではなく「切腹」が命じられた。

凄惨な死に方ではあるが、切腹は武士階級のみに認められた「名誉ある死の儀式」であり特別な権利であった。

ただし、武士であればいかなる罪でも切腹が許されたわけではない。

私利私欲による武士の面目を完全に失う「破廉恥罪」を犯した場合、士分剥奪となり平民と同様に斬首、磔などの不名誉な刑に処された。

破廉恥罪

はれんちざい
倫理、道義に反する卑劣な動機から行われる殺人、窃盗、放火などの犯罪の総称。確信犯(思想犯、政治犯、内乱罪など)や過失犯など法解釈において倫理的、道徳的非難を受けない犯罪は非破廉恥罪(ひはれんちざい)として区別される。

確信犯

かくしんはん
政治的、道徳的、宗教的な信念に基づき、自分の考えは正しい(正義)と信じて行われる犯罪。革命活動、社会運動などの大義が犯罪の動機となる。



武士道の切腹 − 尊厳を護り抜く誇り高き儀式

切腹を命じる、あるいは許可するのは藩や幕府であるが切腹を実行するのは武士本人である。

武士は幕府に処刑される「客体」と化すのを潔しとしなかった。

自らの手で腹を切り命を絶つことで、武士としての誇りを護ることができた。

ここで江戸時代初期ころから、切腹が徐々に形式化されていくことに触れないわけにはいかないであろう。

形式化とは名誉ある死として制度化され、実際には腹を切らないことである。

戦乱が落ち着いた泰平の世では、自分の腹に刀を突き立てる武士は減少した。

しかし、武士としての罪の償いや責任をとる作法は必要である。

そのための方策が形式化であった。

やり方はこうである。

短刀に見立てた扇を三方に載せ、それを武士が手にとり礼をする。

三方

さんぼう / さんぽう

神道の神事において、神饌(しんせん:神様へのお供え物)を載せるための木製の台

次の瞬間、背後に立つ介錯人が首を斬り落とす。

多くの場合、知り合いや尊敬する剣士が介錯人を務めた。

これは「扇子腹(せんすばら)」と呼ばれた。

第三者の目には斬首と変わらなく見える。

しかし、裁く側の幕府や藩、裁かれる側の武士の双方が、自らの意思で責任をとる「切腹の精神」を重んじ尊重していた。

たとえ形式化されようとも、「武士の尊厳」と「責任の完遂」という人間の主体性を尊重している意味において、切腹の存在意義は変わらないのである。


交差する東洋と西洋の思想 − 極刑における主体としての人間の在り方

応報刑論と武士道。

両者に共通するのは、人間に対し尊厳をもって対峙していることである。

同時に、相違点も見えてくる。

尊厳に対峙する主体が応報刑論は国家、武士道は個人と異なるのだ。

対象主体概要
応報刑論国家犯罪者を理性的存在として認めるのは国家である。主体である国家が法に基づき犯罪者に罪を償わせその尊厳を守護する。
武士道個人切腹を行うのは武士本人である。主体である武士個人が切腹を実行することで名誉を回復、自身と一族の尊厳を護る。

両者は西洋の法哲学と東洋の武士社会という、全く異なる土壌と文化から生まれた。

死刑を「国家による強制」と解し、切腹を「個人の権利」と捉えるなら、両者は正反対の概念に思えるであろう。

しかし、その根底には共通の人間観が流れている。

それは、「人間は自らの行為に対し、死をもってしても全責任を負うべき存在である」という過酷なまでの人格尊重の精神である。

西洋の厳格な法哲学と東洋の誇り高き死の美学。

国家と個人、主体こそ異なれど両者の根底において、人間の尊厳を重んじる崇高な精神性で見事なまでに繋がっているのである。


【参考Webサイト】

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