死刑制度から占う日本の未来 ー 国家が合法的に命を奪うシステムは国民を守る正義なのか

社会

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ご機嫌いかがでしょうか、ゲンカイモン です。

私たちが生きる現代社会は、簡単には答えが出ない複雑な課題が無数に存在しています。

一つの偏った情報や感情的な意見に流されず、多角的な視点から物事を客観的に分析、自分自身の頭で考え抜く力がクリティカルシンキング。

そのトレーニングには討論が最適です。

本日のテーマは国家が国民の生命を奪う制度の是非を問う、人間社会における究極の倫理的課題に正面から挑むものです。

法と正義、社会秩序、被害者の悲嘆、そして国家権力の限界について、あなたの価値観を根本から揺さぶる、新しい視点を提供できると確信しています。

どうか最後まで思考を止めず、この知的な真剣勝負を私たちと共に体感してください。

それでは、進行の田川福三郎にマイクを託しましょう。

田川さん、本日も最後まで宜しくお願いします。

 
田川
ゲンカイモンさん、承知しました。

テレビの前のあなたとは一週間のご無沙汰です。


田川 福三郎(たがわ ふくさぶろう)
ジャーナリスト歴60年、現在ヒルガチ専属MC。
ゲンカイモンが最も信頼を置く頼れる相棒。番組をまとめることが使命と信じる熱い男。
事前にゲンカイモン、アシスタント大鷹と入念に打ち合わせを行い、理論武装した上で番組へ臨んでいる。
3人目のパネリストとして鋭く切り込む。

本日もヒルガチの時間がやってまいりました。

最後までお付き合い下さい。

本日のテーマとその論点を発表 ー 難題に挑む二人のパネリストの思想

田川
早速、本日のテーマを発表します。

死刑制度から占う日本の未来 国家が合法的に命を奪うシステムは国民を守る正義なのか

戦後、死刑判決確定後、再審で無罪になった事例が5件あります。

我が日本国の刑事司法制度の信頼を揺るがす大事件です。

一方、国民の83パーセント以上が死刑制度を容認しています。

国際社会から厳しい視線が注がれる中、我々はこの重いテーマから目を背けることは許されません。

本日はこの複雑に絡み合う問題を解き明かすべく、最高峰の知性をお招きしています。

まずは、死刑存置の立場の代表といえばこの人、五十嵐 勘太郎さんです。


五十嵐 勘太郎(いがらし かんたろう
・最終学歴:新東京法科大学大学院法学研究科


・専門分野:刑事政策、被害者学

・博士号:法学博士

・著書『応報と正義の法理』他

五十嵐
紹介にあずかりました五十嵐です。

被害者遺族の拭い去れない悲嘆と法秩序維持の観点から、この国の安全を守るための最後の砦としての死刑制度の存在意義を、論理的かつ冷徹にお伝えしたいと思います。

 
田川
宜しくお願いします。

続きまして、死刑廃止論者の重鎮、海老原 晴海さんです。


海老原 晴海(えびはら はるみ)
・最終学歴:西日本国際大学大学院国際公共政策研究科


・専門分野:国際人権法、刑事法

・博士号:法学博士

・著書『国家権力と絶対的人権の相克』他

海老原
海老原と申します。

本日はお世話になります。

国家の無謬性が袴田事件の再審無罪判決により瓦解した今、不可逆的な人権侵害のリスクと国際社会の潮流から日本がいかに逸脱しているか、その根拠を明確に提示いたします。

無謬性

むびゅうせい
国家や司法は絶対に間違えないとする前提

田川
どうぞ、宜しくお願いいたします。

お二人ならではの建設的な討論を期待しています。

それでは大鷹さん、あなた唯一の活躍どころ(笑)、本日のテーマの論点を教えて下さい。

 
大鷹
田川さん、視聴者様のために本日も渾身の力を込めて、争点になるであろう論点を整理してきました。


大鷹 純 (おおたか じゅん)
ヒルガチ専属アシスタント。徹底的なファクトチェックとパネリストとの出演交渉に奔走する影の立役者。田川、ゲンカイモンとは制作会議で激論を交わし合う同志。

常に冷静沈着な仕事ぶりだが、実は誰よりもヒルガチを愛する熱血漢。初回放送 では感極まって号泣する純粋な一面を見せ、視聴者の心を鷲掴みにする。

それでは、死刑制度継続側の意見から紹介します。

死刑制度肯定側の主張
  • 遺族の感情と正義
    愛する者を理不尽に奪われた被害者遺族の拭い去れない悲嘆と応報感情に対し、法秩序をもって応える究極の正義である。


  • 犯罪抑止と秩序維持
    自らの命を失うという極刑の存在が将来の凶悪犯罪に対する抑止力として働き、社会全体の安全と法秩序を強固に維持する。


  • 絶対的安心感の提供
    極悪非道な犯罪者が再び社会に放たれる可能性を永久に絶ち切ること(再犯防止)で、国民が刑事司法に求める絶対的な安心感と信頼を提供する。


  • 伝統的生命観との合致
    自ら犯した罪は自らの命で償うべきという、因果応報の精神や伝統的な倫理観などの日本独自の文化に合致する。


  • 経済的コストの回避
    凶悪犯を刑務所に収監し続けるための金銭的負担を避け、国民の納得感が得られる経済的合理性が存在する。

警察庁がまとめる犯罪被害者白書 において、被害者や遺族が直面する精神的、及び経済的苦痛の深刻さが毎年報告されています。

続きまして、死刑制度の廃止を求める立場からの主張がこちらです。

死刑制度廃止側の主張
  • 冤罪リスク
    袴田事件に代表されるように人間の裁判に絶対はなく、万が一冤罪であった場合は取り返しがつかない不可逆的な人権侵害となる。


  • 絶対的人権の侵害
    いかなる理由があろうとも国家権力が個人の命を奪うことは、近代憲法が掲げる絶対的人権の尊重と矛盾する。


  • 未解明な犯罪抑止効果
    死刑存置が他の重罰と比較し高い犯罪抑止効果を持つという根拠は、科学的な統計データや研究において明確には実証されていない。


  • 死刑執行官の心理的負担
    絞首刑のボタンを押す刑務官は長期にわたり強いられる精神的ストレスにより、心的外傷後ストレス障害(トラウマ)などの精神疾患に罹患する可能性が高い。


  • 国際社会からの孤立リスク
    死刑廃止が世界の潮流となるなか外交において孤立を深め、犯罪人引き渡しや経済活動の面で国家として実務的な不利益を被る。

3番目の犯罪抑止効果については後で議論すると思いますが、死刑が他の刑罰を上回る抑止力を持つ明確な優位性はこれまで確認されていません。
※ 参考:日本における死刑の抑止効果 ― 3つの先行研究の計量分析の再検討



田川さん、本日の論点は以上です。


死刑制度を巡る日本社会の現状 ー 国民の83%が賛成する世論調査の真実

田川
大鷹さん、ご苦労さま。

毎週のことながら、分かりやすくまとまっています。

まず、本日のテーマの現状認識から始めていきたい。

それには、袴田事件の再審無罪判決に触れないわけにはいきません。

2024年10月9日、検察官が上訴権を放棄したことで正式に無罪が確定。

静岡地方裁判所におけるこの再審無罪判決の要旨は、捜査機関による証拠捏造の可能性まで踏み込んだ極めて異例かつ重い内容です。

再審無罪判決を踏まえた事実確認の結果について|静岡県警察
静岡県警察



1966年の逮捕から2024年の再審無罪判決まで、58年もの長きにわたり無実の罪で拘束されてきた。

戦後5例目の死刑再審無罪判決 です。

死刑判決後に再審で無罪が確定した5例
  • 免田事件(1983年7月28日)

  • 財田川事件(1984年3月24日)

  • 松山事件(1984年7月25日)

  • 島田事件(1989年2月7日)

  • 袴田事件(2024年10月9日)

    ※ 日付は検察が控訴を断念し無罪が確定した日

この衝撃的な出来事は、私たちの刑事司法に対する信頼を裏切る一大事です。

無実の人が死刑で殺されていたかもしれないのですから。

世間でも、国家権力が無実の人の命を奪うことへの恐怖、捜査機関のあり方を問う声がSNS上で爆発的に広がった。

一方、内閣府の基本的法制度に関する世論調査(令和6年) では、「死刑は廃止すべきである」「死刑もやむを得ない」どちらの意見に賛成かとの質問に、83パーセント以上の国民が「死刑もやむを得ない」と回答し、死刑制度の維持を多くの国民が望んでいる実態が明らかになっている。

※ 引用:内閣府の基本的法制度に関する世論調査 2.死刑制度に対する意識(1)死刑制度の存廃

冤罪リスクがあるにも関わらず世論の高い支持。

この極端なコントラストの中で、国家が国民の生命を合法的に奪う構造をどのように受け止め、何を基準に社会の在り方を決めていくべきなのか。

まずは五十嵐さん、袴田事件の再審無罪判決と死刑制度に対する世論の高い支持率、どのように分析されているか伺いたい。

 
五十嵐
袴田事件が無罪判決を勝ち取った事実は、刑事司法のプロセスに重大な欠陥があったことを示す歴史的教訓です。

その後、取り調べの可視化、及び証拠開示ルールの厳格化を進める大きな契機になったのは、視聴者の皆さんもご承知の通りです。

しかしながら、この一件をもって直ちに死刑制度そのものの存立基盤が失われたと結論づけるのは、いささか飛躍した論理ではないでしょうか。

それを踏まえ支持率83パーセントの数値を分析すると、自身の命、あるいは共同体の安全を脅かす凶悪犯罪に対する、国民の健全な防衛本能の表出と評価しています。

けして、凶悪な犯罪の報道に触れたことによる、一時的な怒りの爆発ではありません。

多くの国民は無差別殺人や残虐な強盗殺人など、社会の安全と秩序を破壊する凶悪犯に対し、相応の報いが必要であるという倫理観を共有しています。

それが83の数字に表れているのです。

捜査方法や司法の過ちを正し、冤罪防止の努力を継続すべきなのは論を俟ちません。

しかし、冤罪リスクと極悪非道な犯罪に対する国家の厳格な処罰権の放棄は、別次元の問題として切り離して議論するべきです。

 
海老原
五十嵐さんの「国民の健全な防衛本能」とのご指摘には、非常に危険なバイアスが潜んでいます。

内閣府の世論調査における83パーセントの数字を私なりに分析すると、そこに情報非対称性の存在を感じざるを得ません。

情報非対称性

じょうほうひたいしょうせい
情報を持つ者と持たざる者の間に生じる格差。

マスメディアは凶悪犯罪が起こると、その残虐性を連日センセーショナルに報じます。

数字が取れますので。

対して、冤罪のリスク、死刑を待つ人間の絶望感、執行ボタンを押す刑務官らが背負う精神的負担など、これらの情報が国民に十分提供されているとは到底思えません。

現代はあらゆる情報が各SNSのアルゴリズムでAIによりパーソナライズ(サービスの個別最適化)され、瞬時に恐怖や怒りなどの感情が拡散されやすい社会です。

それは熟議を経ないまま「見せしめ的正義」を希求する、デジタルポピュリズムへと直結する危険があります。

実際に事件発生直後のSNSのタイムライン上には、厳罰や死刑を求める声がハッシュタグと共に多数投稿されています。

この背景を理解せず、世論の支持が高いからと死刑制度を維持するのは、国家の不作為以外の何ものでもありません。

人間が裁く以上、誤判の可能性はゼロにはならない。

一度奪われた命は二度と戻らない、不可逆的な危険性を国はもっと真剣に考えるべきです。

 
田川
お二人が指摘した通りこの問題は、「司法の限界」と「国民の処罰感情」の簡単には交わらない二つの軸により複雑化している。

五十嵐さんが主張されるように、法秩序を維持するには社会共通の倫理観に基づく厳格な罰則が必要であるというのは確かに説得力がある。

同時に、海老原さんが指摘されるよう感情論に偏向した世論を根拠に、執行されたら取り返しがつかない死刑制度を正当化してよいのかという問いも確信を突いている。

事実、死刑制度存置の要因のひとつとして政府は国民世論を挙げている。

ここで問うべきは83パーセントの数値の裏にある国民の本音が、すべての事実を認識し熟考した上での判断なのか。

それとも脊髄反射的な一時の怒りや恐怖の表れなのかという点でしょう。

五十嵐さん、あなたは「一時的な感情の爆発ではない」と明確に否定しました。

もし国民が冤罪の恐ろしさや死刑執行の実態を完全に理解したとしてもなお、この83パーセントという支持率は維持されるとお考えですか。

 
五十嵐
はい、田川さん、高い支持率になると私は思っています。

情報公開の徹底と議論の深化は健全な民主主義社会 において不可欠なプロセスであり、国民がより多くのファクトに触れることは大いに推奨されるものです。

その上ですべての情報が公開され、刑務官の心理的負担や冤罪リスクについての認識が仮に深まったとしても、国民の多くは最終的な刑罰としての死刑を放棄しないと私は予測します。

なぜなら、社会には「どうしても許すことができない絶対的な悪とそれを実行する人間」がいつの時代にも必ず存在し、それに対する最大の拒絶反応の意志を示す手段が死刑だからです。

マスコミによる過激な報道が、怒りや憎しみの感情を増幅するとのご指摘は真理の一面を突いていますが、それを根拠に国民の処罰感情を「情報非対称性ゆえのポピュリズム」と切り捨てる海老原さんは、民主主義の理念を否定するエリート主義に傾倒していると言わざるを得ません。

刑事司法の精度を極限まで高め、冤罪防止の努力を怠らないのは大前提です。

冤罪ではない確実に極刑に該当する犯罪に対し、社会正義としての死刑制度の必要性を私は訴えているのです。

 
海老原
国民の処罰感情を否定する意図はありません。

自然に湧き出る感情を止める権利は誰にもありませんので。

そうではなく国家の法制度を設計する上で、国民感情をそのまま直結させる危うさを国に対して私は警告しているのです。

安心安全な生活を保証するために冤罪、すなわち、無実の人が命を奪われる可能性がある制度を容認する社会は果たして健全でしょうか。

私たちが目指すべきは犯罪の恐怖に支配され報復を求める社会ではなく、人権という普遍的価値を基盤に据えた成熟した社会です。

直近の袴田事件を筆頭に戦後5件の冤罪事件を犯してもなお、高い世論の支持率を根拠に死刑制度を維持するのは、法治国家として自己否定に等しい行為です。


国家の不条理と生命の価値の変容 ー 刑罰権の歴史を紐解く

田川
よくわかりました。

ここからは視点を広げ、人類が刑罰をどのように捉え運用してきたのか、その歴史を辿ってみたい。

古代バビロニアのハンムラビ法典に記される、「目には目を、歯には歯を」という言葉はあまりにも有名です。

これは「やられたらやり返せ」的な復讐を容認するものではありません。

過剰な報復の抑制として、犯した罪と同等の罰を与える「同害報復」の原則を意味します。

「目を傷つけられたら、目以外は傷つけてはならぬ」

この原則は社会秩序を維持するための合理的ロジックとして長らく機能してきました。

我が日本においては平安時代の死刑停止、江戸時代の仇討ちなどの独自文化、これらが現代に生きる私たちの処罰観に少なからず影響を与えていると考えられます。

この日本固有の伝統を踏まえ、現代社会に死刑制度が残存している哲学的、あるいは文化的な意味をどのように解釈されていますか。

 
五十嵐
刑罰の歴史を振り返る上で欠かせないのが、イマヌエル・カントゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル ら近代哲学者が提唱した応報刑論の概念です。

応報刑論

おうほうけいろん
刑罰は過去に犯した法秩序違反犯罪に対する正義的制裁、償いであるとする理論。カントやヘーゲルなどに代表され、刑罰は純粋に応報のためだけに存在し、犯罪
抑止のための見せしめや犯罪者の更生など他のいかなる目的も持たないとする。

応報刑論は法学的な観点から、現代の刑事法体系の基礎を築いたと多くの学術論文で評価されています。

死刑の執行は「むしろ犯人の人間としての尊厳を認める行為である」と、著書『人倫の形而上学』においてカントは論じました。

さらに、日本の穢れ(けがれ)の概念における死生観は重要です。

共同体の調和を取り戻すには、「罪を犯して穢れた魂 を浄化しなければならない」という思想が日本には存在します。

魂の浄化とは自らの生命を差し出すこと。

近代国家は個人による復讐を禁止、国家が刑罰権を独占する社会契約を結びました。

これは国家が被害者に代わり、正当な報いを犯罪者へ与える約束のもとに成り立っています。

死刑廃止は応報権の放棄に等しく、社会契約の根本的な破棄を意味します。

それは、国家と法に対する国民の信頼を崩壊させかねないのです。

 
海老原
五十嵐さんが挙げられた「応報刑論」が、近代刑法学の基礎を築いた重要な概念であるのは歴史的事実です。

ただし、それを現代社会に適用するのは不可能でしょう。

放火犯の家は燃やし傷害犯には同じ傷を負わせるなど、およそ近代国家とは呼べない事態を招くからです。

日本の文化的背景にある「命をもって償う」という美学は、かつての武士道や仇討ちの論理では成立したかもしれません。

武士道

ぶしどう
日本の武士階級の間で育まれた道徳律や行動規範。特定の経典や明文化された規則はなく、自己制御を重んじる精神的土壌として日本人の歴史や文化に深く根付いてい
る。

武士道の主な要素

  • (ぎ):道理にかなった正しい判断と行動
  • (ゆう):恐れずに行動する強い心
  • (じん):思いやりや弱者をいたわる心
  • (れい):相手を敬う態度
  • (せい):嘘をつかない正直さ
  • 名誉(めいよ):恥を嫌い、誇りを守る姿勢
  • 忠義(ちゅうぎ):主君や国への忠実さ

しかし、基本的人権の尊重を最大価値に掲げる現憲法下において、それは倫理的にも法的にも正当性を持ち得ません。

人間の命と尊厳を何よりも尊重する、これこそが現代に生きる我々人類が成熟するために、最も重要な理念であると私は信じます。

国家権力であろうと、いや、国家だからこそ国民の命を奪ってはならないのです。

 
田川
歴史から刑罰を紐解くとそれは単なる制度ではなく、人間の尊厳や国家の在り方と深く結びついた哲学的営みであることがよくわかる。

カントが言う「死刑は犯罪者の人間としての尊厳を認める行為である」というロジックは、基本的人権を尊重する日本国憲法 から乖離しており日本人には理解が難しい。

私なりに解釈すると、「刑を執行しなければ責任能力がない人間として扱われていることになり、それは犯罪者に対する最大の侮辱である」と理解しています。

すなわち、理性ある人間として認めているという意味で、死刑は犯罪者の尊厳を尊重しているという論理に帰結する。

これは尊厳という意味で武士道の「切腹」と通ずるものがあり一定の説得力を持つ。

カントの応報刑論と武士道の死ぬ権利 ー なぜ死刑が人間の尊厳を尊重する行為なのか

イマヌエル・カントが提唱した「死刑は犯罪者の人間としての尊厳を尊重する行為である」との論旨は、現代の人類共通の価値観である「人権尊重主義」の理念に反する逆説である。 そのため難解との印象を持たれるであろう。 生命を奪う死 […]



対して海老原さんが指摘する通り、同害報復を現代の刑罰体系に適用するのは不可能である以上、なぜ殺人に対してのみ「命には命を」という論理が適用されるのか疑問が残る。

伝統的な日本の死生観や社会契約の理念と憲法で保証される人権概念、この両者を我々はどのように調和させるべきなのか。

五十嵐さん、応報刑論が現代社会においてなお有効であるとするならば、それは他の刑罰とどのように整合性を保つとお考えですか。

 
五十嵐
ご指摘の通り、現代の刑罰体系は同害報復の原則を文字通りに適用しているわけではなく、多くの犯罪に対しては自由を奪う懲役刑によって代替されています。

しかし、私利私欲を満たすことを目的に、理不尽な動機で他者の生命を故意に奪う凶悪な犯罪行為については、自由の剥奪などの刑罰では平衡がとれず異なる対応が必要と考えます。

私たち日本人が直感的に感じる「命の重さは命以外では量れない」という倫理観は、令和の時代になろうとも容易に変わるものではありません。

被害者の絶望的な喪失感に寄り添う唯一の手段が死刑なのです。

もし国家が「いかなる凶悪犯の命も奪わない」と宣言した場合、正当な応報が果たされないと感じた遺族や国民は、私刑(リンチ)への欲求や司法への不信感へと転化する懸念があります。

死刑制度は私的復讐の連鎖を断ち切り、社会の秩序と道徳的均衡を維持し続けるために必要な、現代においても機能する倫理システムなのです。

 
海老原
社会の道徳的均衡を保つために死刑が必要であるというロジックは、極めて危険な国家主義的発想へと傾斜しやすいことを歴史は証明しています。

ヨーロッパ諸国が死刑廃止へと舵を切った最大の契機はナチスドイツ体制下などにおいて、国家権力が「社会防衛」や「法秩序の維持」という名目で合法的に数多の生命を奪ったことに対する痛切な反省にあります。

国家という巨大な権力に「人間の命を合法的に奪う権利」を付与し続けるのは、平時においては弊害なく見えます。

ただし、ひとたび国民の熱狂により社会が混乱すれば、弾圧システムへと変貌しない保証はありません。

だからこそ多くの国は大戦後、不可侵な領域として「絶対的人権」の概念を確立し、いかなる理由があろうとも生命を奪うことは許さない意志表明として死刑を廃止したのです。

国家による復讐の代行をやめたからといって法治国家は崩壊しません。

死刑を廃止している多くの国々が安定した社会を維持している、この事実がそれを明確に証明しているではありませんか!


欧米の死刑廃止の道程と日本 ー 国際法と国家主権の相克

田川
海老原さんがドイツの歴史について言及されました。

ここからは世界の現状と日本の立ち位置を比較してみたい。

アムネスティ・インターナショナルは死刑を廃止、あるいは事実上停止している国や地域 が145カ国と公表しています。
※ 参考:2025年の死刑判決と死刑執⾏ ー アムネスティ・インターナショナル報告書

欧州連合(EU:European Unionでは加盟の条件として死刑廃止 が規定されている。

日本はアメリカの一部の州などと伴に、先進国の中で死刑を存置している数少ない国の一つです。

この状況は国際的な会議の場でも度々議論の遡上に挙げられる。

我が日本国固有の法制度を維持する国家主権の権利と国際人権法上の要請との間で、日本はどのように整合性を保つためにバランスを取るべきなのか。

日本が国際的な潮流に逆行しているという批判に対しどのように答えたらいい?

 
五十嵐
その流れに整合性があるなら、国際社会の要請に応えるべきでしょう。

ただし、刑事司法制度は日本の歴史、文化、国民の倫理観、さらに治安情勢などと密接不可分に結びついた国家主権の最たるもの。

欧米諸国が死刑を廃止した背景には、海老原さんが指摘されたような歴史的経緯や宗教的な土壌がありますが、それをそのまま日本に当てはめ「欧米が廃止したから日本も見倣うべきだ」との論理は文化帝国主義的な押し付けに他なりません。

まさに内政干渉です。

国連自由権規約 の6条2項は死刑の執行を認めています。

自由権規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)

第6条
2 死刑を廃止していない国においては、死刑は、犯罪が行われた時に効力を有しており、かつ、この規約の規定及び集団殺害犯罪の防止及び処罰に関する条約の規定に抵触しない法律により、最も重大な犯罪についてのみ科することができる。この刑罰は、権限のある裁判所が言い渡した確定判決によってのみ執行することができる。

日本は最も重大な犯罪に限定し許容しており、適正な法的手続きに則って極めて慎重に運用しています。

確かに欧州諸国からの批判はありますが、それはそれぞれの国家が持つ統治に対する哲学の違いから来るものです。

日本が国民の命と安全を守るために必要と判断した制度を、外圧によって変えるべきではありません。

日本が真に責任を持つべきは国際社会の顔色を伺うことではなく、国内の治安維持と犯罪被害者や一般国民の正義感に誠実に応えることのはずです。

 
海老原
国家主権を盾にして国際的な人権基準から目を背ける態度が、現代のグローバル社会において日本の国益を著しく損なう事態を招いている事実を、五十嵐さんはどう認識されているのでしょうか。

軽視していると言わざるを得ません。

死刑の存置を根拠に、海外に逃亡した犯罪者の引き渡しを他国から拒否される、極めて実務的なディスアドバンテージが既に起きています。

事実、日本が犯罪人引渡し条約を締結しているのはアメリカと韓国の2カ国のみであり、他の国とは個別の外交交渉に頼らざるを得ないのが現状です。

犯罪人引渡し条約が締結できない要因として、死刑制度の存在が影響しているのは明白です。

また、人権外交を重視するヨーロッパの投資家や企業が、日本の司法制度の不透明さや死刑存置がESG投資(環境、社会、ガバナンスを重視する投資)の観点から、マイナス評価を下すリスクは無視できません。

さらに、フリーダムハウス日本の民主主義指数 を下げる要因として、死刑制度の存在であると指摘しています。

フリーダムハウス

Freedom House
アメリカにあるNGO(Non Governmental Organization)。政治的権利と市民的自由を数値化、100点満点で各国の民主主義成熟度を評価する。日本は96点の評価(2024年)だが、4点の減点は死刑制度存置が要因の一つと言われる。

国際社会への「日本の文化だから」という主張は、人権侵害を正当化する免罪符にはなりません。

単に人権感覚のアップデートを怠っている、後進的な国家として評価されるだけです。

国家主権は国際法の範囲内で行使すべきです。

絶対的な人権保障を重要視する国際社会の規範から逸脱し続けるのは日本の外交、及び経済的基盤を自ら崩壊させる行為に等しいのです。

 
田川
日本の「国家主権」とグローバルな「人権思想」が激しく衝突している現実。

五十嵐さんが主張する通り、刑事罰がその国の風土や国民感情と切り離せない以上、欧米の基準をそのまま模倣することへの抵抗感は多くの日本国民が抱く感情かもしれない。

一方、海老原さんが指摘される犯罪人引き渡し条約の障害、国際ビジネスにおけるレピュテーションリスクはもはや理念の話ではなく、現実の不利益として日本の前に大きく立ちはだかっている。

私たちは国内の合意形成を優先し独自の道を歩み続けるのか。

それとも、国際社会における名誉と実利のために制度を世界標準に合わせるのか。

これはとても悩ましく難しい選択だ。

そこで五十嵐さんにお聞きしたい。

現状維持が国際的な不利益を被る現実を前にしても、死刑制度の維持が日本の長期的国益に適うと本当にお考えですか。

 
五十嵐
安易な妥協は国益を損なうと考えます。

国際社会からの要請、一部の実務的な不利益が存在することはもちろん認識しています。

けして軽視していません。

しかし、国家の根幹を成す司法制度の主権を経済的な理由、一時的な外交の不利益などで放棄してはなりません。

もし、国際社会の圧力に屈し83パーセントの国民が支持する制度を廃止すれば、司法に対する信頼は失墜し国家のガバナンスそのものが足元から崩壊する危険があります。

また、死刑を廃止した一部の欧米諸国では、警察官による現場での射殺が多発している報告がある。

欧米の制度が優れているとは軽々に言えないのです。

日本は世界でも類を見ないほど安全な社会を実現しており、その治安水準の高さを支えている要因の一つに、厳格な刑罰体系が存在していることは否定できない事実です。

したがって、日本は堂々と自国の司法制度の正当性と文化的背景を国際社会に向けて発信し、多様な価値観の一つとして理解を求めていくべきです。

 
海老原
日本の治安の良さと死刑制度との因果関係は科学的に証明されていません。

アメリカでも死刑制度を廃止した州の凶悪犯罪の発生件数がそれ以前より増加したデータはありません。

日本の治安の良さは厳罰化ではなく、貧困対策や銃規制などの社会的要因が主です。

アメリカでの射殺多発の背景には人種偏見、マフィアの存在、銃器の流通量、警察官に許容される銃使用の基準などの社会的、制度的要因が深く関わっているというのが一般的な見解です。

司法手続きを経た刑罰の死刑と緊急避難的な警察権の行使、これらはまったく別次元の話ですよ。

話をすり替えないでいただきたい。

人権保障の思想に後ろ向きな日本独自の価値観を、どのように国際社会に対し理解を求めると言うのですか。

現代の国際社会が日本文化の多様性を理解し、死刑を受け入れるなど絶対にありえません。

真の国益とは人権を尊重する文明国としての確固たる地位を築き、国際社会からの信頼を得て連携を深めることにあります。

世論を根拠に制度を正当化することは政治が本来果たすべき人権保護の役割を放棄し、国民の顔色をうかがうポピュリズムに堕していることに他ならないのです。


犯罪抑止効果の科学的実証と生涯コストの比較

田川
ここで少し視点を変えてより実証的、科学的アプローチで死刑制度を検証してみたい。

死刑存置の要因として犯罪抑止効果が挙げられます。

「死刑があるから凶悪犯罪を踏みとどまる」

大鷹さんが整理した論点では、その効果は立証されていないと紹介されました。

先ほど海老原さんも効果はないと否定された。

改めてお聞きしたい。

抑止効果は統計的に証明されていないのでしょうか。

また、死刑を執行せず受刑者を一生涯刑務所で養い続けることに対し、経済合理性を疑う声が少なくありません。

人間の命をコストであまり語りたくはないけれど、政策を決定する上で経済の話は避けられない要素です。

海老原さん、計量経済学や犯罪社会学はこの抑止効果とコストについて、どのような答えを出しているのでしょう。

計量経済学(けいりょうけいざいがく)

Econometrics
経済学の理論をもとに数式モデルを作り、実際のデータを使って統計学の手法で検証分析する学問

 
海老原
結論から申し上げますと、「死刑制度が無期懲役など他の重罰よりも高い犯罪抑止効果を持つ」という仮説は、数多くの科学的なパネルデータ分析(複数の対象を時間経過で追跡する統計手法)により明確に否定されています。

世界的にも死刑を廃止した国や州において、廃止後に殺人事件の発生率が有意に上昇したというデータは存在せず、むしろ低下傾向にある地域すら確認されているのが統計的な事実です。

例えば国連の人権に関する報告書においても、死刑に独自の犯罪抑止効果 があるという明確な証拠は見つかっていません。

そして、制度維持のための運用費が無期懲役囚を一生収容するコストを、遥かに上回る研究結果がアメリカを中心に報告されています。

冤罪を防ぐための膨大な審理時間、厳重な隔離施設の整備、何重もの上訴プロセスなど、法治国家として適正に制度を維持運用するためのコストは莫大な金額にのぼります。

加えて、無期懲役囚の高齢化や収容の長期化に伴う医療、及び介護コストの増大もまた、深刻な財政課題として報告されています。


五十嵐
統計データが絶対的な犯罪抑止効果を証明できていない事実は私も認識しています。

しかし、「証明されていない」イコール「効果がない」わけではありません。

犯罪を企図する人間にとり「捕まれば命がとられる」という制度の存在が、潜在意識の中でブレーキとして働いている可能性をなぜ否定できるのでしょうか。

統計データだけでは判断できない、複雑な人間心理を無視した科学絶対主義に陥っています。

また、司法制度の維持コストが高くつくとしても、それは社会の秩序を維持するための必要経費ではありませんか。

必要なものにお金を出し惜しみしてどうするのですか!

単なる経済合理性だけでこの問題を捉えると、国家の役割を履き違えてしまいます。

死刑廃止の要因に経済的事由は該当しません。

 
田川
抑止効果が証明されていない上、制度維持に多額なコストがかかるという海老原さんの指摘。

データには表れない無意識の犯罪抑止効果、及び必要な制度ならお金を使うべきという五十嵐さんの主張。

うーん、議論すればするほど平行線だ。

私たちは直感的に「死刑があればそれを恐れて犯罪は減るはず」と考えがちですが、冷静に分析すると人間は必ずしも合理的に行動するとは限らない現実も実感する。

「人を殺す経験がしたかった」

「死刑になるために大量殺人を計画していた」

こんな供述を犯人の口から聞くことがある。

一方、制度の是非をそろばん勘定で決めるべきではないとの五十嵐さんの指摘、言われてみれば当前であり非常に本質的です。

「必要なものには税金を使うべき!」

まったくその通りだ。

科学的エビデンスを政策の基盤に置くことの重要性。

そして、経済至上主義に陥り本質を見落とす危うさ。

このふたつを同時に認識しなければならない。

死刑に抑止効果がないとすれば社会を凶悪犯罪から防衛し、市民の安全を確保するための具体的な手段として、刑罰はどのような役割を担うべきだとお考えですか。

 
海老原
刑罰が担うべき真の役割は犯罪者を社会から確実に隔離し、第二、第三の被害者を出さないことです。

加えて、犯罪を生み出す社会構造そのものへのアプローチにシフトしなければなりません。

死刑に抑止効果がないというエビデンスは、いくら刑罰を重くしても犯罪の根本的な解決にはならない事実を示しています。

私たちはより科学的で実効性がある対策に投資すべきなのです。

 
田川
実効性がある具体的な対策として何がある?

 
海老原
例えば、無期懲役刑を厳格に運用し、危険な人物を社会から確実に隔離するシステムを構築すれば、死刑に頼らずとも市民の物理的な安全は確保できるでしょう。

そして、死刑制度の維持に費やされていた膨大なリソースを教育、貧困対策、精神保健福祉など、犯罪を未然に防ぐための社会政策へと振り向ける。

これが最も有効な治安対策です。

国家が合法的に国民の命を奪う野蛮な制度に、国民自身が依存するのを放棄する。

データと理性に基づくスマートな社会防衛策を構築する、これこそが成熟した国民が選択すべき道であると確信しています。

 
五十嵐
海老原さん、「スマートな社会防衛策」との言葉はとても響きがよいですが、それはあくまで犯罪をどう防ぐかという未来の話です。

もちろん、死刑に犯罪抑止力がないのを前提にした、将来の制度設計が必要なのは言うまでもありません。

では、現在進行形の課題はどうするのですか。

2026年現在、101人とも言われる死刑囚への対応です。

すでに服役中の犯罪者が取るべき責任、及び被害者とその家族への償いや心理的ケアへの対策。

現状への対策がまったく不十分です。

社会から隔離すれば安全だと言いますが、刑務所内で他の受刑者や刑務官に危害を加えた場合、すでに無期懲役を受けている者に対し国家はどのような刑罰を与えられるのでしょう。

死刑という極刑が存在しない社会では、凶悪犯罪に対する刑罰の上限が無期懲役で頭打ちとなり、法体系全体のバランスが崩れ、結果として法に対する遵守の念が失われる懸念があります。

なお、社会政策の改善に投資すべきという意見には私も大賛成です。

ただし、教育や貧困対策、社会福祉などは司法が介入する領域ではありません。

両者を混同して死刑廃止の根拠にするのは論理の逸脱です。

法治国家としての威信と秩序を保つには、やはり「凶悪な犯罪を犯せば自らの命を失う」という最終的なデッドラインが不可欠なのです。


多様な視点からの検証、スタジオゲストに田川が直接インタビュー

田川
ここまでは、専門的な見地から議論を深めてきました。

ここからはスタジオにお越しいただいているゲストの方たちに話をうかがい、より多様な視点を取り入れたいと思います。

本日のスタジオゲストも様々な人生経験があることでしょう。

とても楽しみです。

まずは一人目、若者世代の声を代表して、SNSで数百万人のフォロワーを持つインフルエンサーの佐々木さん、率直なご意見をお聞かせください。


佐々木

凶悪な事件が起きるたびに「即刻死刑にしろ!」という怒りの声でSNSは埋め尽くされます。番組が始まる前までの僕はその意見に同調していました。

でも、冤罪のリスクや刑務官の現実について、何も知らずに「いいね」を押していたんだと、今日のヒルガチに参加して気づき少し怖くなりました。冤罪のリスクを知り、感情だけで死刑を肯定してはいけない気持ちが強くなりました。

ただ、被害者とその家族の悲しみを考えると、「じゃあ加害者は生きてていいの?」という疑問も消えなくて、どちらが正しいのか、今は頭の中がぐちゃぐちゃです。

田川
佐々木さん、素直なご意見ありがとうございます。

情報が瞬時に拡散し感情が同期しやすい現代のSNS社会において、立ち止まって考えることの難しさ、そして大切さに気づかれたのは良かった(笑顔)

続いて二人目は長年、凄惨な殺人事件の現場に立ち続け、現在は被害者支援NPOの代表を務める元刑事の木村さんです。


木村

私は数十年間、愛する人を失い、悲しみに暮れるご遺族の姿を数え切れないほど見てきました。ご遺族の「犯人を殺してやりたい」という心の叫びは痛いほどわかります。

その感情を否定する権利は誰にもありません。死刑執行は「仇討ちができた」というひとつの区切りにはなりますが、真に魂の救済にはなり得ないと想像します。

死刑の存廃の議論はとても大事です。ただし、国が今やるべきは今後数十年と続く被害者家族の苦しむ心に寄り添う、恒久的な支援体制の構築ではないでしょうか。

国が策定する「犯罪被害者等基本計画」 などでは長期的支援の重要性が謳われてはいますが、現場の感覚からすればまだまだ不十分です。

田川
木村さん、重い現場の真実を語っていただき感謝いたします。

死刑が魂の救済にはならないという言葉は、我々の認識を根本から覆す重みを持っています。

それでは三人目、司法の最高峰で数々の重要な判決を下してこられた、元最高裁判事の松本さん、法曹界の立場からのお考えをお聞かせください。


松本

裁判官として死刑判決の確定に関与してきた者として申し上げさせていただきます。一つの命を合法的に終わらせる決断を下すことの重圧は、言葉では表現し尽くせません。

私は神ではなく人間です。どんなに適正な手続きを踏み証拠を精査したとしても、「100パーセント間違いがない絶対的真実」を裁判所で再現することは限りなく不可能です。

人を裁くことの限界に思い悩みながら生きてきた判事人生でした。袴田事件の逆転無罪は長年刑事司法に関わってきた我々法曹関係者にとり、背筋が凍るような重い事実です。

司法制度への信頼を根底から揺るがす大事件との田川さんのご指摘はその通りです。しかし、死刑制度は明日も存在しています。

私の立場から言えるのは「疑わしきは罰せず」の基本原則に則り、死刑の適用にはこれまで以上に慎重さを求める、この一点に尽きます。

 
田川
松本さん、司法の頂点におられた方ならではの深く真摯な意見でした。

最後に四人目、ヨーロッパの主要メディアで長年特派員を務め、世界中の司法制度を取材されてきたフランス人ジャーナリストのフランシス・ベンファットさん、外国人の視点から日本はどう見えているのでしょうか。


フランシス

私は日本が大好きですが、死刑制度と入管施設の問題に関しては非常に奇異であり、残酷なシステムを維持していることに残念な気持ちになります。

フランスではギロチンは過去の野蛮な遺物であり、死刑は国家が人権を侵害する最悪の制度であるというコンセンサスが完全にでき上がっています。そこに議論する余地はありません。

日本では「被害者のため」という言葉がマジックワードのように使われますが、国家が復讐を代行することが本当に近代的な法治国家の姿なのか、私たちフランス人には理解が難しいのです。

日本が真のリーダーシップを国際社会で発揮したいのであれば経済力だけでなく、人権という普遍的な価値観においても世界標準に歩み寄る勇気を持つべきだと考えます。

被害者の心の回復と修復的司法がもたらす赦し

田川
スタジオゲストの皆さん、貴重な意見をありがとうございました。

木村さんが話してくださった、「死刑が執行されても遺族の傷は癒えない」との言葉は非常に考えさせられるものでした。

ここからは被害者の心の救済について論を進めたい。

私たちはこれまでの議論の前提として、極刑をもって加害者の命を絶つことこそが、遺族に対する唯一にして最大の慰めであると信じて疑いませんでした。

しかし、刑罰としての応報とは別に、被害者遺族の心の回復(グリーフケア)を目指す「修復的司法(RestorativeJustice)という概念が近年注目を集めています。

法学界隈や諸外国の司法実践において、当事者間の対話を通じて損害の回復を図るこのアプローチについて、多くの学術研究行われている。

加害者と被害者が対話し、真の謝罪を通じて赦しへと至る可能性を模索するこの修復的司法。

どのように考えるか、まず五十嵐さんからお聞きしたい。

 
五十嵐
修復的司法という理念が持つ対話を通じた関係性の修復、心の回復という目的は崇高であり、心理学的な手当ての手法として一定の価値があることを否定するものではありません。

しかし、それを死刑という究極の刑罰を代替するシステムとして、刑事司法の中心に据えることに私は断固として反対します。

なぜなら、愛する家族を理不尽に奪われた遺族に対し、「加害者と対話し赦しを与えなさい」と無言の圧力をかけることは二重の心理的拷問であり、残酷極まりない仕打ちとしか思えないからです。

対話により謝罪や赦しに至るケースは奇跡的な例外に過ぎず、多くの凶悪犯は自己正当化を繰り返し、対話の場が遺族を再び深く傷つける二次的トラウマの温床となるリスクが極めて高いのが実情です。

国家の役割は遺族に赦しという過酷なハードルを課すことではなく、粛々と法に基づいた厳格な刑罰を執行し法秩序の回復を宣言することに尽きるのです。

 
海老原
修復的司法を「赦しの強要」として運用することは絶対にしてはいけません。

ただし、遺族が望むならば選択肢の一つとして採用すべきと考えます。

死刑が執行され加害者がこの世から消滅してしまえば、遺族は「なぜあの日、あの場所で、被害者が私たちの家族でなければならなかったのか」という解決できない疑問を抱えたまま、残された人生を生きることになります。

この制度はあくまで、遺族に選択する権利と自由があり強制するものではありません。

顔すら見たくない遺族もいるはずです。

犯罪者が自己の罪の深さと贖罪の念を表明し、遺族が面会を望んだ場合にのみ対話の機会を提供する。

それは真実を知るプロセスとなる可能性があります。

応報的司法は国家の秩序回復には寄与するかもしれませんが、被害者の名誉回復とその遺族の心の救済には無力です。

木村さんが指摘された通り、執行後の虚無感は遺族をより深い絶望へと突き落とす可能性があるのです。

遺族との対話を通じ、自分が犯した罪を直視させ真の責任を犯罪者に認識させる、そして、被害者とその家族の痛みに向き合わせることこそが、より深い本質的な贖罪に繋がるのではないでしょうか。

 
田川
修復的司法には「真実と責任」を顕在化させる力と、それが遺族への「赦しの強要」という二次被害に繋がる危険と隣り合わせであることがわかる。

私たちが考えなければならないのは、刑事司法の目的が「国家の法秩序の維持」なのか、それとも「被害者家族の心の救済」なのかという、極めて困難な問いへの自分なりの答えです。

刑の執行で司法としては区切りはつきますが、遺族の心の中の時間は愛する人を失くしたあの日から止まったまま。

むしろ、真実への扉が永遠に閉ざされるという残酷な真実に直面する。

一方、五十嵐さんがおっしゃるように、極悪非道な人間からの真の謝罪など期待すべくもなく、対話が新たな絶望を生むだけだという現実的な懸念も決して無視できない。

海老原さん、もし死刑を廃止し加害者を生かし続けるとした場合、反省すらしない加害者の存在が遺族の傷を毎日えぐり続けるという現実について、どのように向き合うべきだとお考えですか。

 
海老原
反省しない加害者が存在し続けることが、遺族にとって耐え難い苦痛であることは想像を絶するものがあり、その痛みに対しては社会全体で寄り添うしかありません。

だからと「被害者が苦しむから国家が合法的に殺してもよい」という論理への飛躍は、感情を根拠にした法治国家の枠組みを逸脱する危険な思想です。

我々が直視すべきは、たとえ加害者が刑死しようとも遺族の心は救済されない事実です。

この解決策は木村さんが提言してくれました。

刑罰とは完全に切り離した「包括的な被害者支援体制」の構築です。

経済的な補償、専門的な心理カウンセリング、住環境の提供など、遺族が日常を取り戻すための具体的なケアに最大限のリソースを投入する。

現在、各自治体でも犯罪被害者等支援条例 の制定が進んでいますが、これを国主導の確固たる権利として確立させるべきです。

犯罪被害者等支援条例

はんざいひがいしゃとうしえんじょうれい
犯罪の被害者やその家族が平穏な生活を取り戻せるよう相談窓口の設置、見舞金の支給、日常生活や医療の支援などを定める地方自治体の決まり

復讐の代行は正義ではありません。

生き続ける加害者に罪の重さを背負わせつつ、被害者を社会全体でケアすることこそが私たちが目指すべき真の救済です。

 
五十嵐
遺族のケアを充実させることには全面的に賛成です。

ただし、それを死刑廃止の代替案とするのは問題の本質をすり替える詭弁に過ぎません。

どれほど経済的支援やカウンセリングを充実させようと、愛する者の命を奪った犯人が安全な刑務所の中で税金が使われ三度の食事を与えられながら生き長らえている。

この事実が遺族にとり癒えることがない生き地獄なのです。

「生き続けることで罪の重さを背負わせる」

これは机上の空論であり、現実の多くの凶悪犯は自己中心的な論理に閉じこもり真の贖罪など行いません。

この犯罪者の残酷なまでにリアルな心の暗部を、海老原さんは過小評価しています。

死刑は被害者の無念を引き受けこれ以上の被害者を生み出さない最も重く、且つ厳粛な国家による決意表明なのです。

法と正義の最終的な確かな拠り所としての死刑制度の存置と被害者支援の充実。

これは、二者択一ではなく、車の両輪として同時に機能させるべきものです。


執行の密室と刑務官のトラウマ ー 死刑囚の人間としての尊厳

田川
議論をさらに深い倫理の深淵へと進めます。

私たち国民の目から完全に隠されている「死刑執行の現場」に光を当てたい。

日本の死刑は密室化された刑場において複数の刑務官が同時にボタンを押し、絞首刑という物理的な方法で執行される、世界でも類を見ない特異なプロトコルを採用しています。

刑事収容施設法 (刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律)などの関連法規においても、刑場での死刑執行の具体的な手順や施設内部の詳細は国民の目から厳重に遮断されています。

全国7か所の刑場
  • 札幌刑務所(収容は札幌拘置支所)
  • 宮城刑務所(収容は仙台拘置支所)
  • 東京拘置所(東京都葛飾区)
  • 名古屋拘置所(愛知県名古屋市)
  • 大阪拘置所(大阪府大阪市)
  • 広島拘置所(広島県広島市)
  • 福岡拘置所(福岡県福岡市)

さらに、自殺を防ぎ行政側の心理的安定を保つという理由から、死刑囚に対し「当日の朝」になって初めて執行を告知する運用が続けられている。

国民の83パーセントが支持する制度の裏側で、国家の代理人として手を下す刑務官たちの想像を絶する心理的負担。

さらに、「明日の朝死ぬかもしれない」という恐怖の中で生き続ける死刑囚の人権。

これらについて私たちはあまりにも知らないことがあり過ぎる。

SNS上でも、稀にこの「当日告知」や刑務官の精神的トラウマについて議論が起こると、「そこまで知らなかった」「誰かがボタンを押している事実から目を背けていた」と驚く声が上がります。

五十嵐さん、この残酷な現場の現実と、死刑囚の人間としての尊厳について、存置論の立場からどのように正当化されますか。

 
五十嵐
まず前提として、死刑が執行される現場に重苦しい緊張と心理的負担が存在するのは事実であり、職務を遂行する刑務官の方々には深い敬意を表さなければなりません。

しかし、刑務官のトラウマを理由に死刑制度そのものを否定するのは、「警察官が危険だから警察をなくせ」「自衛隊員が負傷するから国防を放棄せよ」と同じ論理構造です。

国家の秩序を守るには誰かがその過酷な役割を担わなければならないのは、警察官や自衛隊員と同じ理屈です。

我々国民はそれを深く認識し、刑務官への心理的ケアや待遇改善に全力を尽くすことこそが国民の責任の取り方です。

また、非人道的ではないかと「当日告知」を非難する意見がありますが、彼らは被害者の尊厳を最も残虐な方法で蹂躙した結果として刑場に居ることを忘れないでいただきたい。

そして、事前告知の場合、激しいパニック状態に陥ったり自死を選んだりするリスクが極めて高い。

現場の混乱を防ぐための合理的な安全対策として「当日告知」を理解すべきです。

 
海老原
五十嵐さんの論理は国家の秩序維持という大義名分のもとに、現場の公務員にトラウマを強いる構造を正当化する、非常に冷酷で無責任な国家至上主義に他なりません。

警察や消防、自衛隊のリスクとは根本的に異なります。

彼らは国民の命を守るための緊急的な行動ですが、死刑はすでに社会から隔離された人間を計画的、且つ合法的に殺害する制度でありそこに正当性はありません。

また、「当日告知」が自殺防止のための合理的な措置だという説明は、行政側の都合を優先する詭弁です。

「刑務官の足音が自分の房の前で止まるかもしれない」と、毎朝怯えながら生きている状況を五十嵐さん、あなた想像したことありますか!

数年、数十年にもわたりこのような極限の恐怖を与え続けるのは、国際法が禁じる拷問や残虐な取り扱いに該当する可能性があります。

この「死刑囚症候群」と呼ばれる絶え間ない精神的苦痛は、適正手続き(デュー・プロセス)の保障を著しく毀損し人間としての尊厳を根本から破壊する行為です。

アムネスティなどの国際人権団体も、この当日告知のシステムを「残酷で非人道的」と厳しく非難する報告書 を度々提出しています。

死刑制度に賛成している多くの日本国民へ問いたい。

あなたたちの手は汚さず密室で誰かに合法的な殺人を代行させ、その事実から目を背けている現在の日本の在り方が果たして健全な社会と呼べるのか……と。

佐々木さんのように、本日のヒルガチを見た視聴者の一人でも多くの人が気づいてくれると期待します。

 
田川
密室での過酷な現実とそれを支える論理の衝突は、我々に「国家とは何か」という根源的な問いを突きつけている。

制度を維持するために誰かが手を下さなければならないのは現実です。

一方、刑場の過酷な現実を密室に隠し、刑務官に心的外傷後ストレス障害を負わせてまで維持しなければならない「正義」とは一体何なのか?

私たち国民は深く自問しなければなりません。

また、「当日告知」による長期間の心理的拷問状態は適正な刑罰から逸脱しているのではないか、という疑念は国際社会からの批判の最も大きな要因になっている。

五十嵐さん、死刑を存置し続けるのであればこの密室化されたプロセスを全国民に公開し、国民一人ひとりが「私が刑を執行させている」という当事者意識を持つべきだとは思いませんか。

 
五十嵐
国民に当事者意識を持たせるべきという問題提起は、一見すると民主的で正しいように思えますが私は極めて慎重であるべきと考えます。

刑の執行現場を動画などで国民の目に晒すことは、死刑囚とその家族のプライバシーや尊厳を侵害する可能性があるためです。

加えて、国民の残酷な好奇心を刺激し、社会全体を野蛮な見世物主義へと退行させる危険性があります。

過去の歴史において公開処刑が犯罪抑止どころか、群集の熱狂と娯楽と化した事実を思い出して下さい。

密室で行うのは隠蔽(いんぺい)ではありません。

刑の執行を可能な限り静謐、且つ厳粛に、そして、国民を不要な動揺から守るための配慮なのです。

静謐

せいひつ
物音がせず静かで落ち着いていること、また世の中が乱れず穏やかに治まっている様子

国民が負うべき責任は執行の凄惨な映像を見ることではなく、裁判員制度などを通じて司法プロセスに直接参加し、どのような罪に対して死刑が適応されるべきか、その基準を真剣に議論することのはずです。

 
海老原
公開処刑の野蛮さに回帰すべきではないという点には同意しますが、現状の極端な秘密主義は「社会を動揺から守るための配慮」という建前のもと、制度の非人道的な実態を国民の目から逸らしているに過ぎません。

83パーセントの国民が死刑制度を支持するのは密室内の残酷な現実を知らないためです。

繰り返しになりますが、何度でも言わせていただきます。

情報の非対称性が維持されたままの世論調査を根拠に、死刑を存置するのは国家の不作為です。

刑務官のトラウマや「当日告知」による死刑囚の精神崩壊など、すべての事実を客観的なデータとして国民に公開し、熟議のテーブルに乗せることこそが真の民主主義のはず。

もし実態を知った国民がそれでもなお「誰かに手を下させてでも死刑制度を維持する」と決断するなら、それは一つの民主的な答えとして私は尊重し受けいれます。

現在はその判断材料すら与えられていないのです。

「臭いものには蓋を」の論理で密室で刑務官にトラウマを患わせ、国民は安心、安全な社会を享受している、こんな社会は歪です。

私たちは自覚なき残虐性に気づき、そこから脱却しなければならない時期にきているのです。


熟議民主主義への転換と絶対的終身刑、日本型司法の未来

田川
番組は最終局面です。

最後は日本の明るい未来の話をしたい。

これまでの議論を通じ死刑制度存置の是非論が被害者の救済、国家の秩序、国際社会での日本の立場、そして、人間の尊厳などあらゆる要素が複雑に絡み合う難題であることを浮き彫りにしてきました。

死刑を即座に廃止するか、現状のまま存置し続けるかという単純な二項対立を乗り越えるために、私たちはどのような司法制度をデザインしていくべきなのか。

死刑が廃止された場合の代替案として、仮釈放を排除した死ぬまで刑務所に拘留する「絶対的終身刑」の導入が議論されることもある。

絶対的終身刑

ぜったいてきしゅうしんけい
仮釈放を一切認めず、受刑者が死亡するまで刑務所などの施設に拘禁し続ける刑罰

過去に法務省の勉強会 や国会の場でも度々議論が交わされていますが、いまだにその導入は見送られている。

海老原さん、「絶対的終身刑」を含め、日本の刑事司法が目指すべき未来像とそのロードマップについてお話いただきたい。


海老原
代替え案の「絶対的終身刑」は冤罪発覚時に命を取り留められるので、死刑に比べ人道的だと思います。

ただし、二度と社会に戻れない絶望の中での生活は生きながらの死であり、形を変えた拷問であるという法哲学的批判は免れません。

私が提案する日本型司法の未来像は、「死刑か絶対的終身刑か」という究極の隔離に依存するシステムからの脱却です。

まず、その第一歩として、死刑の執行を一定期間停止する「モラトリアム」を導入します。

その間に袴田事件の教訓を活かした再審制度の抜本的改革、そして、国民的議論を行うためのすべての情報公開を進める。

並行して被害者遺族への恒久的な支援を目的とする「心の救済制度」を法制化し、国家として「仇討ち代行」ではない遺族に寄り添うシステムを構築します。

究極的にはどんな凶悪犯であろうと更生の可能性を否定せず、厳格な審査のもとに社会復帰の道を残す「相対的終身刑」を軸とします。

これが基本的人権を守りつつ、国際的信頼を獲得する次世代の刑事司法モデルと考えます。

 
五十嵐
海老原さんが描くロードマップは人間の性善説に依拠していますね。

理想としては美しいですが現実の凶悪犯罪の凄惨さ、被害者遺族の心の叫びを前にしてはあまりにも無力で机上の空論と言わざるを得ません。

死刑執行のモラトリアムや相対的終身刑への移行は、「どんな罪を犯しても命だけは助かる」という誤ったメッセージを犯罪予備軍に送り、法秩序の根幹を揺るがす危険な社会実験のようなものです。

しかし、私も現状の制度が完璧だとは思いません。

冤罪の悲劇を二度と繰り返さないためにも適用基準を現在よりも厳格化し、科学的証拠が完全に揃い100パーセントの確証がある場合にのみ、死刑を適用する慎重さは必要でしょう。

また、密室化された情報をプライバシーに配慮しつつ、国民に開示することにも異論はありません。

ただし、動画公開は禁止し文書のみでの情報提供に限定する配慮はするべきです。

そして、犯罪被害者支援制度の創設は海老原さんと意を一つにするものです。

 
田川
海老原さん、五十嵐さん、本日は極めて難問で感情的になりやすいテーマについて、最後まで論理的、且つ深く掘り下げた議論を展開していただき感謝いたします。

番組開始時は全く相容れない対立構造に見えましたが議論を尽くした今、アプローチこそ違えど、お二人が共に「被害者の痛みにどう寄り添うべきか」という強い使命感から、すべての言葉が発せられているのがよくわかりました。

そして、この2時間の議論を通し、互いがその使命感を共有していることに気づかれたのではないでしょうか。

「犯罪被害者支援制度の創設は海老原さんと意を一つにするもの」

五十嵐さんのこの言葉にすべてが集約されていますね。

海老原さんが指摘する、普遍的な人権の尊重と国際社会での信頼関係の構築と醸成への視点。

五十嵐さんが主張する、法秩序と伝統的な日本人の倫理観への深い洞察。

どちらも私たちがこれからの社会を構想する上で欠かせない重要なピースです。

この対立から生まれた包摂的なロードマップの実現こそが、我々国民に課せられた次なる課題なのだと実感いたしました。

本日も昼から生でガチバトルしていただきありがとうございました。

そしてお疲れ様でした。


番組名誉顧問、哲学者ソクラテスの私ならこうする!

本コーナーは哲学的視点からテーマを思考することが目的です。オカルトや心霊現象の実在を主張するものではありません。また、否定するものでもありません。日本固有の民俗信仰であるイタコを通じ、哲学を身近に感じていただくための演出とご理解下さい。

田川
さて、ここからはすっかりおなじみになりました、番組名物コーナーです。

複雑に絡み合った現代の課題に対し、古代ギリシアの哲人はどう答えるか。

その叡智を拝借しようと思います。

恐子さん、今日もよろしくお願いします。

さっそくソクラテスを降臨させて下さい。

 
恐子
あいやー、田川さん。

今日もえらい難しい話っこしでだなぁ。


イタコの恐子
御年87歳、イタコ歴70年、現役のイタコ。ゲンカイモンが1ヶ月かけて出演交渉、やっとの思いで口説き落とす。ずだ袋に忍ばせるおやつの南部せんべいを、いつもスタッフにおすそ分けしてくれる、愛と知性に溢れたヒルガチ自慢の看板娘。

命ば奪うだの生かすだの、どっちの言い分も胸が痛ぐなる話っこだども、オラもこの南部せんべい齧りながら、じっくり聞かせてもらっだよ。

んだら、さっそくあの髭もじゃの顧問ばお呼びしてみるべ。
(恐子が数珠を擦り合わせ、呪文を唱え始める)

 
ソクラテス
田川よ、今日も広場で面白い議論をしておったな。


ソクラテス(紀元前469年生–紀元前399年没)
古代ギリシアの哲学者。西洋哲学の祖とされる人物。「無知の知」を自覚し、街頭での対話(問答法)を通じ人々に善や正義を問い続け、魂(プシュケー)の重要性を説く。著作は残さず、その思想は弟子のプラトンらが伝えた。若者を惑わせた等の罪に問われたが、「悪法もまた法なり」と死刑判決を受け入れ70歳でその生涯を閉じる。

田川
おー、ソクラテスよ!

顧問自身も国家(ポリス)の裁判によって死刑判決を受け、それを受け入れて毒杯を仰がれた当事者であられる。

自ら死刑を受け入れた名誉顧問からぜひアドバイスしていただきたい。

 
ソクラテス
うむ。

田川よ、死刑判決を受け入れたからといって、我(われ)が死刑制度そのものを正しいと認めたと汝は考えておるのか?

 
田川
名誉顧問は「悪法もまた法なり」とおっしゃり、逃亡の機会があったにもかかわらず、アテナイの法秩序を守るため自ら死を選ばれたと理解しています。

それは国家の刑罰権を肯定したのではないのですか。

 
ソクラテス
うむ。

後世の者たちはそのように解釈しておるのか。

田川よ、我は命よりも「善く生きること」、すなわち「魂(プシュケー)」を正しく美しく保つことを何よりも重んじたのだ。

我が法に従ったのは法そのものが絶対的に正しいからではなく、ポリスとの約束を破って逃げ出す行為が私の魂を不正なものにしてしまうと考えたからだ。

では、汝に問うぞ。

国家が「悪人を排除して社会の安全を守るため」に命を奪う行為は、本当に国家や国民の魂を「善く」していると言えるか?

 
田川
それは……、五十嵐パネリストの言葉を借りれば、「法秩序を維持し被害者の応報感情を満たすことが社会の道徳的均衡を保っている」と言えるかもしれません。

 
ソクラテス
法秩序の維持や応報感情を満たすことが、真の「善」であると汝らは本当に思っておるのか。

無実の者の命を奪うリスクがあり、手を下す者(刑務官)の魂に深い傷を負わせるような制度がどうして社会の魂を善くしていると言い切れるのだ。

人間は自分が「正義」や「悪」について何も知らないという事実を知らなければならない。

絶対的な正義を知らない人間が作った国家が、取り返しがつかない「死」という究極の判断を下すことは、自らの無知を忘れた傲慢(ヒュブリス)ではないのかね?

 
田川
なるほど……。

我々は「安全」や「正義」という言葉を使って、実は自分たちの恐怖を消し去りたいだけなのかもしれない。

では、ソクラテスよ、我々はこの問題にどう向き合い、どう進んでいけばよいのでしょうか。

 
ソクラテス
答えはすでに出ているではないか。

名誉顧問、哲学者ソクラテスの私ならこうする!

対話し続けることだ。

情報や事実を隠すことなく広場(アゴラ)に公開し、今日汝らがやったように相反する意見を戦わせ、自らの考えが本当に正しいのかを吟味し続けるのだ。

「被害者のため」や「人権のため」という言葉を鵜呑みにせず、その言葉の本当の意味を問い続けよ。

結論を急いで命を奪うシステムに依存するのではなく、魂を善くするための熟議こそが国家を真に健全にする道なのだよ。
(ソクラテスの気配が消え恐子が本来の姿に戻る)

霧晴れて見えぬ道ここに現れん!

 
田川
ソクラテス、そして恐子さん、ありがとう!

「自らの無知を自覚し熟議を尽くせ」という哲人からのメッセージは、情報化社会で結論を急ぎがちな現代の私たちの胸に痛烈に突き刺さりました。

現在の日本で死刑制度の絶対的な正解を求めるのは、とても困難であることが本日の議論で明らかになった。

しかし、二人のパネリストが示してくれたように被害者の痛みに寄り添い、真実を公開し感情を抑えながら対話を続ける。

これこそが私たちが進むべき唯一の道であると確信しました。

この議論を通じ得られた多様な視点を活かし、私たち一人ひとりが当事者意識を持って社会を考え続けることで、必ずや日本の刑事司法はより公正な制度へと進歩していくはずです。

本日のヒルガチはここまで。

また来週お会いしましょう。


【参考Webサイト】



【ゲンカイモン総括】
本日のヒルガチにどのような感想をお持ちになりましたか。


絶対的な正義や単純な二項対立では解決できないテーマを、多様な視点から徹底的に議論する。


これこそが、あなたのクリティカルシンキングスキルを極限まで鍛え上げる近道です。


死刑を存置すべきか、廃止すべきか。

戦後、私らの先輩たちはこの二項対立の中で議論を積み重ねてきました。

結果、現在も死刑制度が維持されているのはご承知の通りです。

本日の総括として法や制度の枠組みからは決して見えてこない、リアルな視点を私の経験から提示したいと思います。

2001年6月8日、大阪府池田市の小学校に侵入した宅間 守は8人の児童を殺害、2003年8月28日に死刑判決を受けます。

この凶悪な事件により学校の安全管理のあり方が根底から覆され、文部科学省が防犯マニュアル を抜本的に見直す契機になりました。

当時、このニュースをテレビで見た時「8人の子どもを?死刑にするしかないだろう」と私の脳裏に一瞬のうちに浮かんだのを覚えています。

25年前の私はクリティカルシンキングを知る由もありませんでした。

2004年9月14日、死刑判決から約1年後という異例の早さで死刑が執行されました。

この時の私の心情は「安堵の気持ち」で包まれていましたが、その原因を深く考えることなく今まで生きてきました。

「残虐な行為ができる人間がいなくなったことに対する安心感」から生まれたのだろうと、本日のヒルガチに自分を当てはめ自己分析しています。

修復的司法の観点から「赦し」の重要性は本編で議論しました。

「同じ目に合わせてやりたい」と思うほどの憎む感情を「赦し」の感情へと昇華させる、これがどれほど困難な道のりであるかは想像に難くありません。

ここで言う「赦し」とは決して凄惨な犯罪を水に流したり、残虐な行為を容認することではありません。

加害者の命を奪うことで解決を図ろうとする、「復讐という名のカタルシス」を自ら手放すことを意味します。

カタルシス

Catharsis
精神の浄化作用。不安や怒り、悲しみなどの抑圧された感情を外に吐き出し精神的安定を取り戻すこと。

この事実を承知の上であえてあなたにお伝えしたいことがあります。

それは怒りや恐怖、憎しみの感情の果てに行き着く先の「自己矛盾」について。

刑が執行され、宅間がこの世から居なくなった時、私は「安堵の気持ち」を抱いたと前述しました。

それは人の死により私の心に「満足感や安心感」が生まれたことを意味します。

子どもたちが凶行の犠牲となり「人の命を私利私欲で奪うこと」をこの世の悪として何よりも憎み、「二度と同じ事件が起きてはならない」と犯罪を強く否定しているはずの私が、宅間 守の極刑を望みそれが叶うことで救いを感じている。

クリティカルな思考からこの強烈な「自己矛盾」に気づいた現在の私は、「宅間の死で安心感を得ている自分は人として失格なのではないか」と、25年前から続く自らの人間性に深い疑念と強い嫌悪感を抱きました。

犯罪を憎んでいるはずの自身の心に、「人の死を喜ぶ狂気が宿っている」事実に気づいたためです。

報復としての死によるカタルシスがもたらすのは真なる魂の救済ではなく、「人の死で満たされる自分」という嫌悪感と、それに対する新たな苦しみの始まりなのかもしれません。

この「新たな苦しみ」を克服するには、死刑囚に対する執行願望を消滅させるしかない。

そのためには、凶悪犯罪の報道を目にしたとき「死刑にするしかないだろう」と脳内に反射的に浮かぶ自分の思考をまずは疑う。

そして、逆の立場の意見を採り入れ双方の視点から吟味する。

初心を忘れず、常にクリティカルシンキングを意識し実践しなければいけないと改めて思う次第です。

国もまた殺人を法律で禁止しながら、死刑制度を維持している「自己矛盾」に陥っています。

国に「自己矛盾」を克服させるには、私たち国民のこれからの行動にかかっているのは間違いありません。

憎む感情を「赦し」の感情へと昇華させ、世論の死刑に対する支持率をいかに低下させられるか。

支持率が下がれば、国が死刑制度廃止へと進む可能性がゼロではない。

そのためにクリティカルシンキングが貢献できると信じています。

本日もご視聴くださり、ありがとうございました。

また来週お会いしましょう。

追伸:被害に遭われたご家族の方が本コンテンツをお読みになり、不快な思いを抱かれたとしたらそれは私の本意ではありません。万が一、そのようなことがございましたら心よりお詫び申し上げます。あなた様に心の平穏が訪れていることを切に願っております。

【予告】
来週は「尊厳死の是非論」を放送予定、どうぞお楽しみに。

【より深くヒルガチを楽しむために】
初めて訪問された方は「ヒルガチの歩き方」
をご覧ください。

【クリティカルシンキングを理解する】
クリティカルシンキングについて「クリティカルシンキングを極める」
で解説しています。

【ゲンカイモン運営哲学】
なぜ、クリティカルシンキングスキルの鍛錬に討論が有効なのか?この答えは「ゲンカイモンの挑戦」
で詳述しています。


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