昼から生でガチバトル(ヒルガチ) は実在しない架空の番組です。すべてゲンカイモンが創作したものであり、実在する人物、団体、書籍とは一切関係ありません。ただし、内容は参考文献に基づき正確性を期すよう、細心の注意をはらい制作しています。初めて訪問された方は「ヒルガチの歩き方」 をご覧ください。より深くヒルガチをお楽しみいただけます。なお、お断りしない限りすべての画像はAIで作成しています。イメージとして掲載していますが放送内容と直接の関係はございません。
こんにちは、一週間のご無沙汰、ゲンカイモン です。
今、私たちの社会には、ある種の「無菌状態」を求める強い圧力が働いています。
誰かが不快に感じるとそれは即座に悪とされ、排除、あるいは消去される。
しかし、胸に手を当て冷静に考えてみてください。
私たちが手に入れたいのは、問答無用に気に入らないものを排除した後の無味乾燥な「静寂」なのか。
それとも、異なる価値観をぶつけ合う会話の中から生まれる、血が通った「対話」なのか。
クリティカルシンキング とは、単に他者を批判することではありません。
あなたが正しいと信じている常識さえも、いや、それこそを一度疑いの眼差しで見つめ直す内省的思考法です。
本日のテーマは世界中の公共空間で現在進行形で繰り広げられている、裸婦像撤去という名のドミノ現象。
これは、芸術と卑猥の定義付けの問題にとどまらず、公(おおやけ)とは何か、私(わたくし)とは何かの議論と地続きです。
加えて、あなたが感じる不快とどのように付き合うべきかが問われる、「多様な価値観を認める負の見返りとしての表現の自由」にも関わる人権的テーマです。
最高峰の知性が火花を散らすその瞬間を、テレビの前のあなたに見届けていただきたいと思います。
それでは田川さん、バトンを受け取って下さい。
後は頼みました、最後までヨロシク!
田川
テレビの前のあなた、こんにちは。
ジャーナリスト歴60年、ヒルガチ専属MCの田川福三郎です。

田川 福三郎(たがわ ふくさぶろう)
ジャーナリスト歴60年のヒルガチ専属MC。ゲンカイモンが最も信頼を置く頼れる相棒。番組をまとめることが使命と信じる熱い男。事前にゲンカイモン、アシスタント大鷹と入念に打ち合わせを行い、理論武装した上で番組へ臨んでいる。4人目のパネリストとして鋭く切り込む。
ゲンカイモンさんから預かった熱いバトンを、テレビの前のあなたと一緒にゴールまで繋いで行きます!
本日のテーマ発表とパネリスト紹介

田川
本日は非常にセンシティブ(Sensitive:繊細、慎重を要する)、且つ私たちの日常生活に密接に関わる問題です。
駅前や公園に長年鎮座してきたブロンズの裸婦像がある日突然、誰かのクレームによって服を着せられたり撤去されたりする。
この現象を社会の健全化と見るか、それとも不寛容な時代の始まりと見るか。
それでは発表しましょう。
本日のテーマはこちら。
なぜ世界で裸婦像が撤去されるのか? 芸術と猥褻の定義と公共性を考察する
この重層的な問いに対し、日本、そして世界で評価されるトップクラスのパネリストをお迎えしました。
まずは、撤去されるのはやむを得ないと主張する、現代の社会構造とジェンダーの視点からこの問題に切り込む、佐々木 玲奈さんです。

佐々木 玲奈(ささき れな)
・国際芸術文化大学 教授
・社会学、ジェンダー論
・社会学博士
・著書『公共空間と視線のポリティクス 対象化される身体』他
佐々木
このような公開生番組は初めなため少々緊張していますが、お呼びいただいた重責はきちんと果たす所存です。
よろしくお願いいたします。
公共空間は既得権益者が恣(ほしいまま)にしてよい場ではありません。
「不快」の声の裏にある、構造的な性差別や客体化の問題を無視することは、現代社会において許されない怠慢です。
田川
ようこそ、ヒルガチへ。
こちらこそ、宜しくお願いいたします。。
続いて、撤去するのは「不快」の原因から目を逸らすだけであり、むしろ、根本的解決を遠ざける行為だと仰る、芸術と美術の伝統と表現の自由の守護者を自認する、久米島 健二さんです。

久米島 健二(くめじま けんじ)
・帝南芸術歴史大学 名誉教授
・西洋美術史、美術工学
・文学博士
・著書『ルネサンスから現代に至る身体表現の真実』他
久米島
本日はお招きいただきありがとうございます。
芸術を現代の政治的妥当性などの物差しで測ることに、警鐘を鳴らしに参りました。
一度失われた美の遺産は2度と取り戻せない事実を、私たちはもっと真剣に考えるべきです。
田川
久米島さん、忌憚(きたん:遠慮、気兼ね)ないご意見を期待しています。
そして、本日は特別ゲストとして日本近代彫刻の巨星、高村光太郎先生 を時空を超えてお招きいたしました。

高村 光太郎(たかむら こうたろう)
・彫刻家、詩人
・東京美術学校(現:東京藝術大学) 卒
・著書『道程』(1914年)、『智恵子抄』(1941年)
・彫刻作品『手』『乙女の像』他
・受賞『帝国芸術院賞』(1942年)『読売文学賞』(1950年)
高村
ご紹介を賜りました、高村 光太郎と申します。
彫刻は石やブロンズという無機物の中に、人間の熱い命を吹き込む行為です。
現代の皆さんがこの「命」をどう捉えているのか、じっくりとお聞きしたいと思います。
【お断り】
高村光太郎氏は実在した人物です。番組内での発言は、氏の文献から想定される思想をもとにゲンカイモンが創作したものであり、実際にこのような発言をした記録はありません。ご了承のうえお読み下さい。なお、画像はAIで作成していますがイメージであり本人ではありません。
田川
高村先生、お越しいただきありがとうございます。
お会いできて大変光栄です。
それでは、本題に入る前に大鷹さん、まずは議論の火種となる論点を確認しましょう。
大鷹
はい、アシスタントの大鷹 純です。

大鷹 純 (おおたか じゅん)
ヒルガチ専属アシスタント。徹底的なファクトチェックとパネリストとの出演交渉に奔走する影の立役者。田川、ゲンカイモンとは制作会議で激論を交わし合う同志。常に冷静沈着な仕事ぶりだが、実は誰よりもヒルガチを愛する熱血漢。初回放送 では感極まって号泣する純粋な一面を見せ、視聴者の心を鷲掴みにする。
本日の議論の軸となる、肯定的側面、否定的側面の論点フリップです。
- 対象化(客体化)の是正
女性を一方的に「見る対象」とする展示は性差別を再生産する - 公共空間の安全
子供やあらゆる性別の人が心理的ストレスを感じずに過ごせる場を確保すべき - ポリティカル・コレクトネス
多様な価値観を尊重しマイノリティへの配慮を優先する - 現代的再解釈
数十年、数百年前の価値観で作られた作品も現代の倫理基準で評価されるべき - ゾーニングの確立
芸術は否定しないが公共空間ではなく適切な場所(美術館等)で展示すべき
- 表現の自由の侵害
一度「不快」を理由にした撤去を許せばあらゆる表現が検閲の対象となる - 歴史的、文化的価値
裸体表現は古代から続く美の探究であり猥褻(わいせつ)とは次元が異なる - クレーマーへの屈服
声の大きな一部の意見に屈することは民主主義的な意思決定の歪みを生む - 文化の退行
複雑な問いを投げかける作品を排除し無菌化された社会は思考力を弱体化させる - 経済的、ブランド損失
優れたパブリックアート(公共芸術)は都市の魅力を高める資産である
田川
ありがとうございます。
さあ、これらの論点を踏まえて、昼から生でガチバトルしていただきます。
裸婦像撤去の連鎖現象! 世界中の公共空間から芸術が消えつつある現実

田川
まずは、現状認識から始めたい。
現在、欧米から日本に至るまで、公共空間からの裸婦像撤去 がドミノ倒しのように起きています。
イタリアの小村で、透けるような服を纏った女性像『ラ・スピゴラトリチェ(L’eros della Spigolatrice)』 が設置されるや否や、「性的だ」と批判を浴びた事件は記憶に新しい。
日本でも駅前の裸婦像に、何者かが服を着せるという騒動が起きています。
なぜ今、これほどまでに裸婦像への風当たりが強まっているのでしょうか。
佐々木
これは単にクレーマーが増加したわけではありません。
長年、私たちは「芸術」「美術」という伝統文化の名の下に、女性を鑑賞の対象として一方的に消費し、性的客体化とすることを善しとしてきました。
せいてききゃくたいか
人を感情や意志のある主体ではなく、性的な満足や鑑賞のための『物』として扱うこと
しかし、XやYouTubeなどSNSの普及によりこれまで沈黙を強いられてきた人々が、公共空間において受けている心理的負担の実情を発信できるようになった。
すなわち、抑圧されてきたマイノリティの人たちが意思表明できる環境が整ってきている現実に、既得権益者が風当たりが強いとの印象を受けているにすぎません。
久米島
個人が自由に情報発信できるのは素晴らしいことです。
ただし、問題の本質はそこではありません。
人間の裸体は、古代ギリシャの時代から「神への尊厳」や「理想の美」の象徴でした。
それを、性的好奇心という陳腐なフィルターを通してしか「芸術」「美術」を見られない人が増えてしまった。
これは、見る側が美的リテラシーを失い、あらゆる裸体を「エロか、エロでないか」の二元論に落とし込んでしまっている証左です。
Literacy
知識や情報を適切に理解、解釈、活用する能力
非常に嘆かわしいことです。
高村
大切なのは、その彫刻の中にどれだけの「絶対的生命が吹き込まれているのか」と、作者の創作意志を推し量る見る側の想像力です。
今、世界で騒がれている撤去騒動を俯瞰すると、人々は作品の内部に存在する生命を見ようとせず、肌の露出面積だけを測定し右往左往しているように感じます。
これは、芸術への侮辱であると同時に、人間の存在に対する信頼の欠如ではないでしょうか。
田川
確かに「彫刻に宿る生命」には目もくれず、自治体は「炎上を避けたい」という保身から撤去するケースが多い印象です。
一部の批判の声によって議論も尽くされぬまま作品が撤去される現状は、非民主的だと私は思いますが……。
佐々木
公共空間は拒否したくてもできない場所です。
美術館のように、見たい人が主体的に行くのとは性質が根本的に異なる。
誰もが往来する道や公園に裸婦像があることで不快と感じる人がいるなら、その撤去は社会の健全化への第一歩だと私は評価します。
ただし、田川さんが指摘した非民主的という懸念も理解できます。
自治体は撤去の説明責任を、これまで以上に果たさなければいけないのは論を俟ちません
久米島
各個人の主観である不快感を物事の判断基準にする。
佐々木さん、これがどれほど恐ろしいことか、真剣に考えた上での意見ですか?
かつてナチスがモダンアート(キュビスム、表現主義、ダダイズム、シュルレアリスムなど) を「退廃芸術」 と呼び、多くの名作(ピカソやゴッホを含む約1万6000点以上)を略奪、焼却した歴史を思い出して下さい。
ヒトラー によって、多くの芸術家(マックス・ベックマン、シャガール、カンディンスキー、クレーなど)が迫害され、亡命を余儀なくされました。
今もなお、略奪された作品の探索活動 が続けられています。
誰かがひと言「この像は不快だ」と言えば、日本でもあらゆる芸術は公共の場から消え失せるでしょう。
すべての人が賛同するなどありえないからです。
それは、文化の多様性を真っ向から否定する、成熟した社会からの退行ではありませんか!
田川さんと同じく、私も民主的とは思えません。
撤去を引き起こすポリティカル・コレクトネスと社会の風潮

田川
ここ数年、特にポリティカル・コレクトネス(Political Correctness:政治的妥当性。特定のグループに不利益や差別を与えない言葉や態度のこと。以後ポリコレ)の意識が急速に高まりました。
それに伴い、SNS上での告発から社会的排除へ繋がるキャンセルカルチャー(Cancel Culture:不適切な言動があったとされる対象をSNS等で糾弾し追放する動き)が激化しています。
ポリコレが裸婦像の見方を変えた決定的要因は何でしょうか。
佐々木
ポリコレの本質は、既存の強者の論理を解体することにあります。
裸婦像の多くは男性アーティストがパトロン(支援者:王侯貴族や裕福な商人)のために、女性の身体を美化して作ったものが多くを占める。
そこには鑑賞者である男性と被鑑賞者の女性という、固定化された権力構造が存在します。
ポリコレの概念が浸透したことで私たちは初めて、公共空間に誰の視点が優先されているのかを客観的に認識できるようになったのです。
久米島
しかし、そのポリコレが今や表現の画一化と不寛容を招くモンスターと化している。
芸術の役割は目に優しく、耳障りがよいことだけを伝えるものではありません。
作者の創作意思と作品が、時に世間へ不快感を与えるかもしれない。
しかし、人々の心に価値観の相違という一石を投じ波紋を広げ、刺激を与えることこそが芸術の存在価値です。
ポリコレという「除菌のルール」を芸術に強制すれば、何の毒も、そして何の感動もない味気ない記号だけしか展示できなくなるでしょう。
高村
ポリティカル・コレクトネス、政治的妥当性……ですか。
先ほど、パトロンという言葉が出ましたが、私は依頼者におもねって作品を作ったことはありません。
社会の正しさや道徳をなぞるために作る、これもまた違う。
むしろ、それらにより普段は覆い隠されている人間の本質を暴き出すために、鎚(つち)をふるい鑿(のみ)を打つのです。
その人間が持つ絶対的な真実、すなわち「本性」を表出させる、これこそが私の創作意欲を駆り立てる原動力の一つです。
もし『みちのくの像』 が「性的だ」と批判されるなら、私はこう問い返します。
「あなたはこれほどまでに強靭な魂の肉体を、ただの肉の塊としてしか見ることができないのか」……と。
ただし、同時に達成感で満たされもする。
人間の本性を表出させるという目的が叶ったのですから。
田川
なるほど。
作品が性的なのではなく、「性的だ」と感じたその人の「本性」がまさに性的ということか。
『みちのくの像』によってその人の「本性」が露わになる。
高村先生の訴えはまさに表現者の誇りそのものです。
魂の叫びにも等しい。
しかし、マイノリティや弱者の感情を尊重する多様性の追求と表現の自由は、どこで折り合いをつけるべきなのでしょう。
佐々木
多様性とは「何でもあり」ではありません。
特に公共空間においては、最も傷つきやすい立場の人に配慮することを優先するべきです。
久米島さんはそれを不寛容と仰いますが、これまでの女性の客体化を当然とする思想こそが、女性に対し極めて不寛容だったのです。
今起きているドミノ現象はその歪んだバランスを是正するための、社会的マイノリティたちによる正当なフィードバック(反応)です。
久米島
オーバーフィードバック(過剰反応)が問題なのです。
キャンセルカルチャーの危険性はその正当性が暴走し、議論を一足飛びにして抹殺に至るスピードの速さにある。
一度でも不快のレッテルが貼られたなら、作者の製作意図や歴史的価値など一切無視される。
私たちは今一度、冷静に「芸術の自律性」を信じ直す必要があります。
西洋との衝突と土着の文化! 日本における「芸術」と「恥」の相克

田川
ここで視点を日本に移しましょう。
日本には、古代から春画(しゅんが:江戸時代などに描かれた性風俗画)に代表される、おおらかで奔放な性文化がありました。
しかし、明治時代に西洋からファインアート(Fine Arts:純粋芸術)の概念が輸入されたことで大きな矛盾が生じます。
明治33年、黒田清輝の『裸体婦人像』 の下半身に布がかけられた「腰巻事件」 はその象徴です。
久米島さん、日本における裸体表現の受容には、どのような歪みがあったのでしょうか。
久米島
西洋での裸体は「神が創造したもうた理想的な美」という認識です。
しかし、日本にはそもそも理想化された美という概念が希薄でした。
明治の日本人は西洋に倣って芸術としての裸を受け入れようとしましたが、土着的な「恥」の文化と衝突してしまった。
日本において裸婦像は西洋的な教養の仮面を被った、どこかよそよそしい存在であり続けてきたのです。
佐々木
日本社会は西洋から輸入された芸術という免罪符を利用して、男性の性的好奇心を肯定してきた側面があります。
芸術だから許されるという論理は極めて植民地主義的であり、同時に男性特権的でもある。
春画が持っている「笑い」や「日常」としての性とは異なり、公共空間の裸婦像は権威的な「静止した客体」として、日本の公共空間を支配してしまいました。
高村
私の父、高村光雲(たかむらこううん)も明治の混乱を生きました。
当時は「西洋風でなければ芸術ではない」という風潮があり、日本の木彫も存亡の危機にありました。
私はパリへ渡りロダン の彫刻に触れましたが、そこで学んだのは解剖学的な正しさではなく、作者が作品へ込めた内面から突き上げる生命力です。
日本の彫刻家たちは西洋の模倣から抜け出し、ようやく自分の言葉で肉体を語り始めた。
しかし、今の撤去騒動を見るとまたしても外からの基準に怯え、自国の文化のあり方を自ら否定しているように思えて悲しくなります。
田川
高村先生の仰る外からの基準がかつては西洋化であり、今はグローバルなポリコレであるというのは皮肉です。
日本の土着的な恥の文化は、今の撤去騒動にどう影響していると考えますか。
久米島
日本では欧米に比べて公共性の概念が、「皆が不快にならないこと(和の尊重)」に偏っています。
そのため、欧米のような権利の衝突としての議論ではなく、誰かが不快と感じるなら「無くしてしまえ」という事なかれ主義に陥りやすい。
これが、本質的なジェンダー議論を深めることなく、ただ作品だけが消えていく不毛な現状を招いているのです。
「腰巻事件」から100年以上経っても日本人の裸体に対する態度は、隠蔽(いんぺい)か消費かの2項対立から脱却できていない。
私たちは西洋の模倣でもない、一部のヒステリックな声への屈服でもない、日本独自の美と倫理の対話を今まさに始めるべきではないでしょうか。
聖なる肉体から猥褻物へ! 歴史が物語る美とタブーの境界線

田川
歴史を振り返れば、何が「芸術」で何が「猥褻」かの境界線は、常に権力と社会倫理によって動かされてきました。
19世紀、エドゥアール・マネ の『オランピア』 がサロンで発表された際、大スキャンダルになった。
なぜヴィーナス(女神)の全裸は許され、オランピア(娼婦)のそれは糾弾されたのか。
久米島
それは神話という衣の有無です。
伝統的なアカデミズム美術(Academic Art:伝統的、権威的な美術様式)では裸体を描くには、「これは神話の女神である」という大義名分が必要でした。
マネはその偽善を剥ぎ取り、現実のパリの女性(娼婦)を挑戦的なまなざしと共に描いた。
当時の人々は、芸術という名目で密かに楽しんでいた覗き見的な欲望をマネによって暴かれ、現実を突きつけられ激怒したのです。
つまり、猥褻の概念は社会が隠しておきたい真実に触れた時に機能するのです。
佐々木
マネの例は興味深いですが、オランピアもまた描かれる娼婦の意志は不在のままです。
歴史が証明しているのは、何が猥褻かを決めるのは常に権力を持つ男性という厳然たる事実。
彼らが「これは聖なるものだ」と言えば芸術になり、「これは風紀を乱す」と言えば猥褻になる。
現代の撤去運動はその判定権を、ようやく市民(特に女性やマイノリティ)の手元に取り戻そうとするプロセスなのです。
高村
私はロダン の彫刻を見たとき、それが仮に「醜い老女」であろうと「筋骨隆々な若者」であろうと、そこに「真」があれば、それは「美」なのだと悟りました。
猥褻とは肉体を魂のない肉の塊として見る、すなわち、見る側の精神の貧しさではないでしょうか。
マネが描いたのは娼婦である以前に、1人の人間としての存在そのものでした。
その尊厳を読み取れない人々がそれを猥褻と呼ぶ。
猥褻と芸術の境界線を引いているのは法律でも宗教でもなく、見る者の想像力の欠如なのです。
田川
確かに見る側の想像力の欠如は否めません。
ただし、現代社会では刑法175条 のような具体的な法律が存在し、それが「社会の風俗」を管理しています。
わいせつ物頒布等(わいせつぶつはんぷとう)
第百七十五条 わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の拘禁刑若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は拘禁刑及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
2 有償で頒布する目的で、前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管した者も、同項と同様とする。
猥褻は時代を超えた絶対的な基準なのでしょうか。
久米島
いいえ、法学において「わいせつ」の定義は流動的です。
かつてのチャタレー事件(D.H.ロレンスの小説『チャタレー夫人の恋人』をめぐる裁判)では、文学的価値よりも性描写が罪に問われました。
しかし、現代の常識ではあの作品を猥褻と評価する人は少ないでしょう。
実際に、削除部分を復元した完全版が1996年に出版されています。
法律は常に「その時代の平均的な市民の倫理観」を映し出す鏡ですが、芸術はその鏡を叩き割って一歩先の倫理を提示するものなのです。
佐々木
その一歩先が常に裸に向かうのはなぜでしょう。
服を着た女性でも先進的な芸術を表現できるはずです。
歴史学的な観点から見れば、芸術家たちが裸体という伝統的なモチーフに固執しすぎたことが、現代の閉塞感を招いた一因とも言えるはずです。
スタジオゲストへ田川が直撃! 公共空間における裸をどう見るか

田川
ここで、スタジオ観覧の抽選に当選されたゲストの方々にお話を伺いましょう。
多様な立場からこの裸婦像撤去問題をどう感じているか、本音をぶつけていただきます。
まずは星野さん、地下アイドルとして見られる活動をされていますが、駅前の裸婦像はどう感じますか。

星野
はい、私は撤去否定派です。アイドル活動をしていると、よく「性的対象化」と言われますけれど、それって見る側の問題だと思うんです。像があるだけで女性蔑視だと騒ぐのって、なんか、女性を弱くて守られるだけの存在にしてる気がします。かっこいい像なら、裸でも全然いいじゃないですか。
佐々木
星野さん、それは選択の自由がある場合の話です。
地下アイドルのライブは行かない選択ができますが、駅前の像は見ない選択ができないのです。
「性的対象化」にさらされる苦痛は個人的な問題ではなく、社会的な構造の問題なんですよ。
田川
なるほど。
続いて、川藤議員。
政治家、そして父親の視点からいかがですか?

川藤
どちらか1つ選べと言われれば私は撤去肯定です。表現の自由との兼ね合いを考慮すると悩ましいですが、駅前や公園などは公共の福祉との調整が必要と考えます。実際、私の選挙区でも「子供に裸をどう説明すればいいのか困る」「夜道で像を目にすると不気味に感じる」という保護者の方々の声は多い。私も2児の父親として、裸の像が町中にある理由の説明に困惑しているというのが正直なところです。
久米島
川藤さん、それは教育の放棄ですよ。
多様な価値観を教える絶好の機会ではないですか。
「裸の像が町中にある理由の説明に困惑している」とおっしゃいましたが、「これは人間の肉体の美しさを讃える芸術だよ」と、彫刻の存在意義を子供たちに教えてあげればよいだけでしょう。
事実を伝え、後は子供たちの自主性に任せる。
それが、教育というものです。
教えもせず、ただ撤去するのは教育の放棄に他なりません。
田川
田中さん、日本最大級の暴走族の元総長、現在は更生支援施設、NPO法人レクペラーレの代表としてこの排除の動きをどう見ますか。

田中
俺は絶対撤去否定派です。自分らみたいなはみ出し者は、世の中から「目障りだから消えろ」ってずっと言われてきた。「不快だから撤去」っていう考えの先にあるのは、人間を型に嵌める息苦しい社会でしょう。裸の像が気に食わねぇなら、見なきゃいい。見たいと思う人を許容する、それくらいの心の広さがあってもいいはずです。
田川
深いですね。
最後にマイケルさん。
欧米の視点からいかがですか?

マイケル
私は肯定でも否定でもなく対話が必要だと思います。アメリカでも像の撤去はありますが、大切なのは「キャンセル」ではなく「コンテクスチュアライゼーション(Contextualization:文脈化)」です。像の解説と伴に「なぜ今、この彫刻が批判されているのか」という、現代の視点からの論点を解説したパネルを像の隣に設置する。歴史と現代の価値観どうしを戦わせるのです。久米島さんが言う教育とも通ずるかもしれません。議論を封鎖するのが一番の罪ですよ。
田川
ありがとうございます。
ゲストの皆さんの声が本日のテーマが持つ多層的な矛盾を浮き彫りにしましたね。
芸術か猥褻か揺らぐ境界線! 法・政治・経済が絡み合う現代の問題

田川
現代において猥褻を決めるのは、もはや裁判所だけではありません。
SNSのアルゴリズム、企業のコンプライアンスなどの可視化されない力が、表現の境界線を書き換えています。
Compliance
法令を含む企業倫理、社内規定、マナーなどの社会規範を守り誠実に行動する
現在の法制度は多様化する価値観に対応できているのでしょうか。
久米島
チャタレー事件最高裁判決などで示された「わいせつ性の三要件」はあまりに抽象的です。
- 徒(いたずら)に性欲を興奮、刺激する
性的な関心を誘発する性的な描写であること - 普通人の正常な性的羞恥心を害する
社会の平均的な感覚を持つ人が見て不快や恥ずかしいと感じるレベルであること - 善良な性的道義観念に反する
当時の社会の倫理観や道徳的に許容できないこと
かつての最高裁判決は「芸術性があれば猥褻性は減少する」という相対的な考えを採っていました。
ところが今の社会は「誰か一人でも不快と感じれば芸術性など関係ない」という、感情の絶対主義に陥っています。
法律が防波堤として機能せず、ポピュリズム(大衆迎合主義)に飲み込まれているのが現状です。
佐々木
法律が追いついていないのは、その性的道徳観念の主体を未だに標準的な男性を想定しているからです。
現代のジェンダーポリティクスはその標準そのものを疑っています。
Gender Politics
社会的、文化的な性差(ジェンダー)が、いかにして政治的な権力関係、政策決定、社会制度に影響を及ぼしているかを分析、議論する概念
公共空間において女性の身体が「男性の性的関心を惹きつけるために、女性自身の尊厳を損なう形で展示される」のはもはや単なる道徳の問題ではありません。
基本的人権の侵害、つまりセクシュアル・ハラスメント(性的嫌がらせ)の概念として捉え直されるべきなのです。
田川
佐々木さんの仰るセクシュアル・ハラスメントの視点は非常に現代的です。
しかし、その判断をAIやプラットフォームの経済的論理に委ねてしまう危険性は無視できない。
佐々木
その通りです。
プラットフォーム資本主義の下ではAIが肌の色や露出を機械的に検知し、議論の余地なくアカウント削除を行います。
Platform Capitalism
GAFAM(Google, Apple, Facebook, Amazon, Microsoft)やUber、Airbnbなどの巨大IT企業がWeb上にプラットフォームを提供、その上でユーザーや企業間取引を仲介し膨大なデータと利益を集める現代の経済モデル
これは教育でも政治でもなく、単なるリスク管理としての検閲です。
国家による検閲よりも企業の炎上回避目的の自主規制の方が、真綿で首を絞めるようにじわじわと、しかし、確実に芸術を衰退させていくでしょう。
高村
AI……ですか。
機械が美しさを判断するなど、私には想像もつきません。
私の彫刻には「触覚」があります。
空気の抵抗、重力、そして作者の迷いや確信がその凹凸に刻まれている。
それを露出面積という単なる数値で測ること自体が、芸術家の精神に対する冒涜(ぼうとく)です。
私たちは便利さと引き換えに自分の目で見て、自分の頭で不快の意味を咀嚼し思考することを忘れてしまったのでしょう。
田川
高村先生が仰る「咀嚼し思考する」機会が、経済的なスピード感の中で失われているのかもしれません。
私たちはこの法制化されていない見えない検閲に対し、どう対処すればよいのでしょうか。
久米島
リテラシーの強化以外にありません。
不快を感じた時、すぐに「削除せよ」と叫ぶのではなく、「なぜ自分は不快なのか」「この像は何を語ろうとしているのか」と内省する。
高村先生が仰った「作者の制作意図を推し量る見る側の想像力」です。
経済的論理は最短距離の正解を求めますが、芸術は寄り道の問いを提供します。
この寄り道を許容する社会の余裕を私たちは法的、あるいは経済的な枠組みの中でも守り抜かなければなりません。
ジェンダーポリティクスと公共空間の支配権

田川
議論はより本質的な公共空間の支配権というテーマに突入します。
裸婦像の撤去問題がこれほどまでに激化するのは、これが単なる美学の議論ではなく権力争いの側面があるためと思われます。
佐々木
まさにそうです。
公共空間(パブリックスペース)とは、その社会の合意された価値観が形となって現れる場所です。
そこに裸婦像が置かれ続けてきた事実は、この空間は女性を鑑賞の対象とする男性のものであるという、暗黙の支配権を示していました。
撤去を求める運動は女性たちがその支配権に対して「ノー」を突きつけ、空間の再定義を求めている政治的行為です。
つまり、性的客体化を拒絶する、魂の解放運動と言っても過言ではありません。
久米島
しかし、その再定義が過去の文化の破壊とセットになっているのは、あまりに短絡的で暴力的ではありませんか。
公共空間は現在を生きる私たちだけのものではありません。
過去の先人たちが残した足跡であり、未来の世代が受け取る財産でもある。
「支配権を握ったから気に入らない過去は消去する」という発想は、独裁者のそれと何ら変わりません。
高村
私はかつて『智恵子抄』の中で、病める妻、智恵子の姿を克明に描きました。
彼女を「対象化」したと言われればそうかもしれませんが、そこには妻の魂を何とかしてこの世界に繋ぎ止めたいという、私の必死の祈りがありました。
公共空間の像がもしそれが真実の祈りから生まれたものなら、それは誰かの支配を助けるものではなく見る者の魂を自由にするはずです。
もし、誰かがそれを見て支配されていると感じるなら、それは作品が死んでいるか、あるいは、見る側の心が何かに支配されているからではないでしょうか。
田川
「見る側の心が支配されている」……。
それは、私たちが被害者か加害者かという二極化された政治的フレームワークに、あまりに毒されているという意味でしょうか。
佐々木
高村先生の祈りは尊いものですが公共空間にある像の多くは、そこまで高潔な意図で置かれたものばかりではありません。
バブル期の公共事業で、それらしい記号として置かれた凡庸(ぼんよう)な像が、今の女性たちの視線に耐えられなくなっている。
久米島さんは独裁と仰いますが、これまでの男性中心の展示こそが静かな独裁だったのです。
私たちは今その独裁を解体し、真にみんなのものとしての公共空間を設計するスタートラインに立っているのです。
久米島
解体した後に何が残るのですか。
誰も傷つけない、何の毒もない、無機質なコンクリートの広場ですか。
それは魂の解放ではなく魂の平板化です。
表現の対象化という批判は芸術そのものを否定することに繋がりかねない、非常に危険な刃です。
私たちは政治的な支配権の奪い合いから、芸術を救い出さなければなりません。
多様性社会における公共芸術の行方と未来への提言

田川
いよいよ最終章です。
私たちはどこへ向かうべきか、明るい未来を語りたい。
これからの公共芸術のあり方について提言をまとめたいと思います。
久米島さん、まずは排除から対話へのシフトについて。
久米島
先ほどマイケルさんが仰った「コンテクスチュアライゼーション(Contextualization:文脈化)」、これこそが唯一の道です。
過去の作品を悪としてキャンセル(消去)するのではなく、負の側面も含めて現代の教育素材として活用する。
例えば、像の台座にQRコードを設置し、その場で肯定、否定の多様な意見、美術史的な背景、ジェンダー的な批判にアクセスできるようにする。
オープニングでゲンカイモンさんが仰っていましたね。
公共空間を無味乾燥な思考停止の静寂の場から、思考を活性化させる対話の場に変えるのです。
佐々木
作品が権威的な象徴として居座るのではなく対話のきっかけになるなら、私もコンテクスチュアライゼーションに賛成です。
大切なのは過去の遺産を包摂(ほうせつ:包み込むこと)しつつ、現代の痛みに対しても誠実な態度をとる。
そして、これからは裸婦像という古いモチーフに頼らない多様なアイデンティティや、異なる価値観を形にした新しいパブリックアートを市民参加型で生み出していくべきです。
高村
私は芸術の役割は癒しや心地よさを与えることだけでなく、人々に新たな疑問や衝撃など、魂が震えるほどの感動を与えることにあると信じます。
芸術にはその力が間違いなく存在する。
異論を許容できる社会、不快を即座に消さない社会のほうが、長期的には強靭なイノベーション(革新)や文化の成熟を生み出すでしょう。
リスクを極限まで除菌した無菌室に新しい命は育ちません。
時に自分を傷つけるかもしれない芸術を抱きしめる勇気を私たちは持つべきです。
田川
「芸術を抱きしめる勇気」
素晴らしい思想です。
佐々木さん、久米島さん、そして高村先生。
議論を尽くしてきましたが、最後にお互いへのメッセージをお願いします。
佐々木
久米島先生の歴史への畏敬に触れ、私が今という視点に固執しすぎていたことに気づかされました。
表現を消すのではなく、重層化させる努力を共にしていきたいです。
久米島
佐々木さんが指摘された「公共空間の支配権」という視点は、私の専門分野でも見落とされがちな概念でした。
芸術を守るためにも、その空間が「誰のためにあるのか」を問い続ける姿勢を私も学びたいと思います。
高村
田川さん、今日の議論は「智恵子との対話」と同じくらい真剣で清々しいものでした。
肉体は滅びますが私たちが今日ここで交わした言葉の響きは、必ず未来の誰かの鑿の音になる。
芸術家の皆さん、どうか自分の魂を信じて作品を作り続けていただきたいと思います。
そして、ヒルガチの視聴者の方たちには、もっと芸術に触れる機会を増やしてくださいとお伝えします。
田川
佐々木さん、久米島さん、そして高村先生。
本日も昼から生でガチバトルしていただきありがとうございました。
そしてお疲れ様でした。
番組名誉顧問、哲学者ソクラテスの私ならこうする!

本コーナーは哲学的視点からテーマを思考することが目的です。オカルトや心霊現象の実在を主張するものではありません。また、否定するものでもありません。日本固有の民俗信仰であるイタコを通じ、哲学を身近に感じていただくための演出とご理解下さい。
田川
さて、番組も大詰め。
名誉顧問の登場です。
恐子さん、南部せんべい、私も後でいただいていいですか?
恐子
ああ、田川さん、もちろんだべ。
今日の議論は八戸の海よりも荒ぶってて、聴いてるこっちも魂が震えたす。
裸だろうが服着てようが、お天道様の下で恥ずかしくねぇ生き方をしてるかどうかが、一番大事な気がするね。

イタコの恐子
御年87歳、イタコ歴70年、現役のイタコ。ゲンカイモンが1ヶ月かけて出演交渉、やっとの思いで口説き落とす。ずだ袋に忍ばせるおやつの南部せんべいを、いつもスタッフにおすそ分けしてくれる、愛と知性に溢れたヒルガチ自慢の看板娘。
それじゃ、名誉顧問を呼んでみるべ。
(恐子が激しく数珠を鳴らし、唸るような声で唱え始める……。突然、その背筋が伸び、静謐ながらも凄みのある声が響き渡る)
ソクラテス
田川よ、今日も広場(アゴラ)で熱を帯びた議論をしておったな。

ソクラテス(紀元前469年生 – 紀元前399年没)
古代ギリシアの哲学者。西洋哲学の祖とされる人物。「無知の知」を自覚し、街頭での対話(問答法)を通じて人々に善や正義を問い続け、魂(プシュケー)の重要性を説く。著作は残さず、その思想は弟子のプラトンらが伝えた。若者を惑わせた等の罪に問われたが、「悪法もまた法なり」と死刑判決を受け入れ70歳でその生涯を閉じる。
田川
おぉー、ソクラテスよ!
お待ちしていました。
裸婦像撤去をめぐるこの激しい論争、名誉顧問ならどう決着をつけますか。
ソクラテス
決着、と言うたか。
人間はすぐに白黒をつけたがるものだ。
だが田川よ、その前に一つ問いたい。
汝らは「不快」を公共の場から排除することで、社会の安寧(あんねい)を得ようとしているようだが、その「不快」とは一体誰が決めるのだ?
田川
それは……現代においては、声を上げたマイノリティの方々、彼らに寄り添う人々、あるいは炎上を恐れる企業の判断でしょうか。
ソクラテス
うむ。
では、その声は常に絶対的な『善(アレテー)』に基づいていると断言できるか?
それとも、時代や感情によって移ろう『思い込み(ドクサ)』に過ぎないのか?
優れた医者が病を治すために苦い薬を処方したとする。
子供はその苦さを「不快だ」と泣き叫び、医者を追い出そうとするだろう。
子供が不快がるからと、医者を広場から追放する親は正義であろうか。
田川
いえ、正義ではありません。
その苦さは、体を治すために必要なものです。
ソクラテス
うむ。
芸術家もまた、社会の魂を治療する医者と考えられはせぬか。
彼らが差し出す裸のブロンズ像の苦い薬を、人々は「猥褻だ」「不快だ」と叫ぶ。
だが、本当にすべきはその像を隠すことではない。
その像を見たとき、なぜ我々の心に波風が立つのか、己の魂の病(偏見や差別の構造)に向き合うことではないのか?
田川
像が不快なのではなく、像によって浮き彫りになる私たち自身の内なる病が不快ということか。
高村先生が指摘した『みちのくの像』が人間の「本性」を露わにする話と同じだ。
ソクラテス
うむ。
病から目を背けて絆創膏で隠したとて治りはせぬ。
「無菌の牢獄」で得られる平穏と、「異論の嵐」の中で己の無知を自覚する自由、どちらが人間を真に幸福にするか。
言うまでもなかろう。
恐子
(突然、恐子の地の声が少し混ざる)
んだんだ。
臭い物に蓋ばしても、腹の中の虫は治んねぇべ。
冬の吹雪さ真正面からぶつかって歩かねば、春の太陽のありがたみも分がんねぇ。
見だぐねぇものを見るから、人間は強ぐなるんだべ。
ソクラテス
うむ。
この者は学はないが真理を知っておるな。
名誉顧問、哲学者ソクラテスの私ならこうする!
像を撤去してはならぬ。
放置し沈黙してもならぬ。
その像の前に、誰でも自由に問いと答えを書き込める巨大な黒板を置くのだ。
ある者は『美しい』と書き、ある者は『権力による抑圧だ』と書く。
その書き込みの連なりを見て、また別の者が自分の無知を自覚し新たな問いを書き足す。
公共空間にあるその像を、対話(ディアロゴス)を生み出すための助産師にするのだ。
対話を止めた時その像は単なる金属の塊と化し、思考を止めた社会もまたいずれ死に至るであろう。
田川よ、不快を恐れるな。
不快こそが、知と対話への入り口なのだから。
恐子
(深い息を吐き、元の恐子に戻る)
……ふぅ。
不快を恐れるなっつーのは、ちょっくら難しいな。
霧晴れて見えぬ道ここに現れん!
田川
ソクラテス、恐子さん、深い示唆をありがとう。
「不快こそが知と対話への入り口」。
そして、「像を社会の助産師にする」。
裸婦像をめぐる議論は私たち自身の寛容さと、民主主義の質そのものを試しているのですね。
撤去か維持かという二項対立の答えよりも、私たちがどれだけ「自分と異なる価値観」と粘り強く対話できるか。
明日、街で裸婦像を見かけたときに沸き起こる感情と思考に、あなたも真剣に向き合ってみてください。
そこにはきっと新しい発見があるはずです。
本日はここまで。
来週の金曜日、またお会いしましょう。
【参考文献リスト】
- 高村光太郎 美に生きる
https://www.nigensha.co.jp/book/b558807.html - 文化庁:我が国のパブリックアート具体的な取組に向けてhttps://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/bunka_keizai/art_working/03/01/pdf/93908801_03.pdf
- 東京都:パブリックアート設置及び管理のガイドラインhttps://www.city.chiyoda.lg.jp/documents/26762/guidelines.pdf
【ゲンカイモン総括】
不快感を単なる「排除の引き金」にするのではなく、対話のきっかけへと昇華させる。
これこそが、本日のクリティカルな議論から得られた成果です。
佐々木さんと久米島さんの激論、そして高村先生の魂の咆哮。
それらは、一見すると答えのない迷宮のように見えますが、ソクラテスが示した「不快から逃げず問い続ける姿勢」こそが唯一の出口なのです。
恐子さんの口寄せを通じて私たちは数千年の歴史を超え、今、自分たちが立っている地面の危うさを知りました。
多様性社会とは誰もが快適な社会ではなく、誰もが「誰かの異論」を許容し対話し続ける粘り強い社会のことです。
ヒルガチはこれからも、あなたの思考の境界線を揺さぶり続けます。
未来は、今日あなたが抱いたその違和感の先にあります。
今週はここまで。
来週の金曜日にお会いしましょう。
ごきげんよう。
【予告】
来週は「出生前診断は神の領域への介入か! 命の選択が問いかける親の権利とエゴイズム」 を放送予定、どうぞお楽しみに。
【より深くヒルガチを楽しむために】
初めて訪問された方は、「ヒルガチの歩き方」 をご覧ください。
【クリティカルシンキングを理解する】
クリティカルシンキングについて、「クリティカルシンキングを極める」 で解説しています。
【ゲンカイモン運営哲学】
なぜ、クリティカルシンキングスキルの鍛錬に討論が有効なのか? この答えは「ゲンカイモンの挑戦」 で詳述しています。
【免責事項】
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